ドヴォルザーク/交響曲全集 (Antonín Dvořák : The Complete Symphonies) |
ベートーヴェン以降マーラー以前の交響曲作家として、ドイツ・オーストリア系の代表的作曲家はシューマン、ブルックナー、ブラームスですが、ドヴォルザークはチャイコフスキーとともに、前記3人の大家に迫る非ドイツ系の重要人物でございます。 ドヴォルザークのおよそ40年に及ぶ創作活動期間のうち、9つの交響曲の半数を超える5曲は最初の約10年、すなわち1865年から75年の間に書かれました。つまり、創作期の初期段階で、平均2年に1作というかなりのハイペースで交響曲を作り続けたということでございます。 |
詳しく見ますと、1865年、24歳の年に最初の第1、第2交響曲が完成、その後かなり間を置いた1873年に第3交響曲、続いて第4、第5交響曲が年1作のペースで書かれます。 これら5曲の交響曲には、ドヴォルザークの強みである楽想の豊かさが随所に見られる一方、構成面での冗長さを否定することは難しそうです。しかも第2交響曲から第5交響曲までの4曲は、後年ドヴォルザーク自身の手で大改訂されておりますから、作曲当初は現在以上に贅肉が多かったと推察されます。これらの初期交響曲が今日あまり親しまれておりませんのも、やむを得ないことかもしれません。 やがてブラームスに認められたドヴォルザークは、ブラームスの仲介で楽譜出版のジムロック社から「スラヴ舞曲集」を出版します。1878年、ドヴォルザーク37歳の年で、長い下積み時代を経てのメジャーデビューと申してよろしいでしょう。 「スラヴ舞曲集」は大ヒットし、ドヴォルザークの名はたちまち世界中に知られることになりました。
さて、1860年代の前半から1875年までのおよそ10年間を創作の第1期としますと、次の約10年間、すなわち1876年頃から1884年までの第2期には、交響曲はただ1曲、第6交響曲が書かれたに過ぎません。
次の約10年、1885年から1995年までの第3期は、ドヴォルザークの「傑作の森」の時期と申してよろしいかと存じます。 アメリカから帰国後の約10年、ドヴォルザーク最後の第4期におきましては、この作曲家は交響詩とオペラにその精力を傾注し、ついに新しい交響曲を書き上げることはありませんでした。
「あそびの音楽館」では、ドヴォルザークの交響曲のすべてを、ピアノでやってみることにいたしました。オーケストラの豊穣な響きに対してモノクロームなピアノの音色ではその魅力が激減することは明らかですが、興味をもってくださる方がひとりでもあれば本望でございます。 |
(2005.10.24〜2023.1.27) |