ドヴォルザーク/交響曲 第2番 変ロ長調 作品4
(Antonín Dvořák : Symphony No.2 in B flat major, Op.4)

Dvorak さほど裕福とはいえない肉屋兼宿屋の子として生まれたドヴォルザークは、肉屋の修行に出たズロニツェの町でドイツ語を師事したアントニン・リーマンに出会わなければ、まず間違いなく市井の肉屋として生涯を終えていたことでしょう。

当時、オーストリア・ハンガリー帝国の版図の一部であったボヘミアでは、肉屋の免許を得るにはドイツ語が必須だったそうでございます。 少年ドヴォルザークにドイツ語を手ほどきしたリーマンは、同時に音楽教師でもあり、ドヴォルザークの音楽の才能を非常に高く評価しました。

リーマンの説得と伯父の経済的援助のおかげで、父親も息子に音楽家の道を歩ませることを承諾し、16歳のドヴォルザークは晴れてプラハのオルガン学校に入学することができました。

18歳でオルガン学校を卒業したドヴォルザークは、レストランやホテルで軽音楽を演奏する小さな楽団に就職し、ヴィオラを弾いて貧しい生活をしておりましたが、21歳の年に、将来完成予定(1868年定礎、1881年完成)の国民劇場の仮設劇場オーケストラのヴィオラ奏者に採用されました。ここで約10年間演奏に携わった経験が、作曲する上で豊かな肥やしになったことは間違いないと思われます。とはいえ、懐具合が寂しいのは相変わらずで、収入を少しでも増やすため、ドヴォルザークは1865年にチェルマーク家の二人の娘に音楽の個人教授をすることになりました。
この年の春、ドヴォルザークは作曲コンクールに応募するためにハ短調の大きな交響曲を書き上げましたが、ちょうどその頃教え子の一人、姉のヨゼフィーナに強い恋心を抱いたのでございます。どうやらこれがドヴォルザークの初恋だったそうで、この年の8月1日に着手し10月9日に完成された変ロ長調の交響曲には、その恋の反映が見られるというのが通説です。
結局ドヴォルザークの恋は片思いに終わりましたが、変ロ長調交響曲に加えて歌曲集「糸杉」も生まれ、それが無駄な失恋ではなかったことを証明しております。

さて、24歳という若者の手に成る変ロ長調交響曲ですが、当然のことながら、無名の新人のこのような大作が演奏されるあてはなく、友人のモルジック・アンガーが一時スコアを保管することになりました。コンクールに送ったハ短調交響曲も落選し、ドヴォルザークはそれからおよそ8年間を、無名の一音楽家として過ごすことになります。
プラハでドヴォルザークの名が知られるようになるのは1873年に初演された賛歌「白山の後継者たち」の大成功からで、その後1875年からはオーストリア政府の設けた国家奨学金に5年間にわたって毎年応募し、連続して奨学金を受けるという快挙を成し遂げます。
さらに1877年には「モラヴィア二重唱曲」がブラームスの激賞を受け、ブラームスの紹介でジムロック社から出版されます。そして翌1878年、ジムロックの依頼を受けて作曲した「スラヴ舞曲集」が大ヒット。ドヴォルザークは一躍売れっ子作曲家となってまいります。まさに順風満帆でございます。

1880年代に入り、40歳を越えたドヴォルザークは、もはや押しも押されもせぬ大家の地位を獲得いたしました。そうした時期の1887年、ドヴォルザークはかつて預けていた変ロ長調交響曲のスコアを友人アンガーから返却してもらいます。
このときまでに、ドヴォルザークは2曲の交響曲を出版しており(現在の第6と第7)、交響曲作家としても認められておりました。今日の第6番にあたるニ長調交響曲以前に、ドヴォルザークは5曲の交響曲を作曲しておりましたが、ドヴォルザーク自身はハ短調の最初の交響曲は完全に失われたと思い込んでおり、残り4曲のまだ出版されていない若い頃の交響曲のスコアを手許に集めたのでございます。
それからドヴォルザークが始めたのは、これらの若書きの交響曲の改訂でございました。ドヴォルザークは、できれば若い頃書いた交響曲を出版したいと望んでいたのです。改訂は注意深く行われ、変ロ長調などは全曲にわたって無駄を削り取る作業の結果、260ページあったスコアが212ページにまで削減されたということでございます。
改訂を終えた4つの交響曲のスコアは、ジムロック社に送られました。しかしながら、ドヴォルザークの期待を裏切って、ジムロックが出版したのはヘ長調の作品1曲だけでした。しかも、「第3番」という、旧作を新作に見せかけるような番号を付けられて。
以前から、旧作を新作に見えるように作品番号を操作して出版するジムロックの方針に反発していたドヴォルザークにとって、このたびの措置が快かったはずはございません。第8交響曲の出版の際に持ち上がる騒ぎの下地は、このときすでに整っていたのかもしれません。

それはともかく、24歳のときに書いた変ロ長調交響曲は、結局これでお蔵入りということになりました。実際には1888年にプラハで初演されてはいるのですが、ドヴォルザークの番号付き交響曲としては長い間日の目を見ることなく、出版されたのはようやく1959年、作曲から100年近くも経過してからのことでした。

ドヴォルザーク自身はもはやこの世にないものと思っていたハ短調交響曲が発見(1923年発見)されて「第1交響曲」となったため、この作品は今日ではドヴォルザークの第2交響曲とされております。しかし、ドヴォルザークの心の中ではこれは記念すべき「第1交響曲」であり、初恋と失恋の思い出の作品でもあったのでしょう。大幅な改訂を加えてまでも出版したかった、愛着のある曲だったに違いございません。

曲は4つの楽章で構成されておりますが、とにかく長大でございます。無駄を削除してこの長さですから、原曲はおそらく演奏時間1時間を超えていたと思われます。19世紀の一般的な交響曲の演奏時間が40分前後ということを考えると、やはりこの長さは普通ではございません。
曲を見てみますと、作曲中に浮かんできたアイディアをあまり吟味せずに次々に盛り込んでしまった、という趣があり、それが曲を長大化させる一因となっているように思えます。
しかしながら一方で、湧き出るような楽想の奔流には目を瞠らさせるものがあり、新鮮な生命力に溢れた豊穣さが聴く者の心を捉えます。
シューベルトやシューマンのこだまが聴こえてくるのも、若いドヴォルザークの作品らしいところです。とりわけ、第3楽章などはシューマンの作品と見まがうばかりでございます。
第1楽章と第4楽章はソナタ形式、第2楽章は三部形式、第3楽章はスケルツォと、外面的には通常の伝統的な形式を踏襲しておりますが、中を見ますと相当にいろいろなことをやっております。場合によっては、いろいろやりすぎて破綻しかかっているところさえございます。
けれども、そうした部分も含めて、この作品がなかなかに魅力的な交響曲であることは否定できません。

この長い曲をピアノのモノトーンで聴き通すのは、ひょっとすると苦行に近いかもしれません。連弾への編曲は、まったくのところ私の個人的趣味以外の何物でもなく、おそらくお聴きになって面白いと思われる方はごくごく少数にとどまるかと存じます。
それにもかかわらず、貴重なお時間を犠牲にしてお聴きくださったみなさまには、厚く御礼申し上げますm(__)m

(2013.3.24〜4.15)

交響曲第2番 変ロ長調 作品4・全曲連続再生 

第1楽章/アレグロ・コン・モート (I. Allegro con moto) 
第2楽章/ポコ・アダージョ (II. Poco adagio) 
第3楽章/スケルツォ:アレグロ・コン・ブリオ (III. Scherzo : Allegro con brio) 
第4楽章/終曲:アレグロ・コン・フォーコ (IV. Finale : Allegro con fuoco) 

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◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集
◇編 曲・MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma