そんな「茶番」で「幸せ」が掴めるんなら、今頃とっくに平和な世界になってるはずだろ・・・。どいつもこいつも、「本気」じゃねぇーから「茶番」で終っちまうんだよ。
最近、新聞やニュース番組から流れてくる事件の内容を聞いていて、感じたことがひとつある。「自分の心を開いて人と接する」って事を「人の心に土足で入り込む」って事に履き違えている奴が結構多いんじゃなかって。少年の殺傷事件の多発を例に挙げてみると、「加害者」となった少年達の殆どが、普段は大人しく・・・とか、明るい性格で・・・とか、俗に言われる「普通の子供」だという。じゃ何故、そんな彼らが普段の姿とは結び付かないような事件を起してしまったのか・・・。毎回この疑問符が付いて回っている。
その度に、アホな評論家達が口を揃えて出す答えは、親の教育が悪い・・・とか、悩みを相談できるような友達付き合いが出来ていなかったとか、その程度。結局、最後にはお約束のように「キレる」を出して、「ウーン」と唸って終わり。「水戸黄門」のシナリオより能がない。そして、クローズアップされてゆくのは、「少年A」が辿って来た人生の一切合切。後は、被害者の家族が流す涙。その報道を見て、群がってゆく野次馬と上辺だけの同情。そして、便乗犯・・・。
話しを元に戻そう。普段「普通の子供」が何故、事件まで至ったのか?自分なりに考えてみた。人と人には、どんなに親しい間柄でも、絶対にそれ以上近づけない「絶対距離」があると思うんだ。たとえ、家族同士であっても、どんなに愛し合ってる者同士でも縮めることの出来ない「絶対距離」が・・・。言葉では、上手く言い表せないけど、人の心の中にはそれぞれに、自分だけしか入ることが許されない「聖域」が存在してると思うんだ。・・・自分だけしか知らない真実や、誰にも見せたことのない別の自分、≪タブー≫のような要素が置かれている「心の中の聖域」が・・・。小さな子供から熟年層に至るまで全ての人に存在してると思う。だから、人と人はどんなに深く愛し合っても、お互いの「聖域分の距離」までしか近づくことは出来ない。もし、その距離を侵して、誰かが自分の「聖域」に入ろうとして来たらどうだろう?仮に俺がそうされたら、相手が誰であろうと、呑気に「今度やったら許さないから・・・」なんて言ってられない気がする。