チャイコフスキー/交響曲第5番 ホ短調 作品64 (Tchaikovsky : Symphony No.5 in E minor, Op.64) | ||
チャイコフスキーの本格的な創作活動はおよそ28年ほどに亘りますが、これをざっと三分しますと、以下のようになるかと思います。 | ||
第1期: | 1866年〜1878年(26歳〜38歳、第1交響曲からヴァイオリン協奏曲まで) | |
第2期: | 1879年〜1887年(39歳〜47歳、歌劇「オルレアンの少女」から第4組曲「モーツァルティアーナ」まで) | |
第3期: | 1888年〜1893年(48歳〜53歳、第5交響曲から第6交響曲「悲愴」まで) |
旺盛な創作意欲が多数の作品を生み出した第1期のあと、チャイコフスキーは一種のスランプに陥ります。創作のペースが極端に落ちたというわけではございません。教職の合間を縫って作曲しなければならなかった第1期に比べて、フォン・メック夫人からの多額の年金で生活が保障され、作曲家としての名声も上がる一方だったこの時期、チャイコフスキーは4曲のオペラを含む多くの作品を安定したペースで世に送り出しております。 にもかかわらず第2期のチャイコフスキーは、自分の中の音楽が干からびてしまったのではないか、かつて作ったものをただ繰り返しているだけなのではないか、という自己不信に苦しんでおりました。 生活に困らず、作曲に自信がなくなれば、私のような凡人ならば作曲などやめて人生を楽しむ方向に流れるものでございますが、チャイコフスキーには作曲をやめることはできませんでした。音楽を作り続けることは彼にとって生きることとイコールだったのでございましょう。
チャイコフスキーは創作の中心をオペラと交響曲に置いておりました。第1期の終わりに第4交響曲と「エウゲニ・オネーギン」というそれぞれのジャンルでの会心の作を書き上げたあと、それらを越える傑作を生み出せないでいたことが、第2期のチャイコフスキーに苦渋をもたらしたものと思われます。
1888年の晩春に、チャイコフスキーは5番目の交響曲に取りかかります。インスピレーションが舞い降りて熱狂的に書き始めたわけではなく、立派な交響曲を書かねばならない、という自己に課した義務感から始めたようでございます。 1889年、ドイツ演奏旅行の折、この交響曲はやはりチャイコフスキーの指揮でハンブルグやライプツィヒで演奏されましたが、これは大成功を収め、ブラームスはチャイコフスキーに会った際、この交響曲に好意的な態度を示したということでございます。ブラームス嫌いのチャイコフスキーがそれを喜んだかどうか存じませんが(チャイコフスキーは第4楽章に特に強い不快感を抱いておりました)、ともかくドイツでの成功でチャイコフスキーもこの曲を見直す気になったようで、甥に宛てた手紙で「いまではこの曲を以前よりもずっと好んでいる」と書いております。 今日から見ますと、第5交響曲はチャイコフスキーの最後の創作期の開幕を告げるエポック・メーキングと申せましょう。この曲以降、チャイコフスキーは再び自作への確信を取り戻し、「眠りの森の美女」「スペードの女王」「くるみ割り人形」「悲愴」と、名作・傑作を続々と世に送り出すことになるのでございます。
第5交響曲の連弾化は、弊サイトをご支持いただいているある方からの「チャイコフスキーの交響曲をピアノで聴きたい」というご要望にお応えしたものでございます。 例によって拙い編曲ではございますが、万が一お楽しみいただければ幸甚でございますm(__)m |
(2007.4.22〜5.6) |