シベリウスがいつ頃この3楽章制交響曲の構想を放棄したのか、詳しいことは存じませんが、ともかく第7交響曲は、第6交響曲と並行して想を練られていくうちに、単一楽章の作品として具体化してまいりました。そして、その性格も、当初の「生への喜びと活力」というようなものとは大きく異なるものとなりました。
第6、第7の2つの交響曲を同時に進めていた1920年代の初頭、シベリウスは精神的にかなり不安定だったようで、演奏会で指揮をしたり五線譜に音符を書きつけたりする際、手の震えが止まらず、それを抑えるために酒を飲むということを繰り返し、アルコール依存症に近い状態になっていたようでございます。フィンランド国内のみならず、世界的に大作曲家として認められ、いわば功成り名遂げたと申してよいにもかかわらず、どうしてまた彼はそんな精神状態に立ち至ったのでしょう?
おそらくは、創造的な芸術家としての責任感が、シベリウスを押し潰しかねないほどの重圧となっていたのではないかと思われます。年々高まっていく名声は、これまで以上に優れた作品を世に送らなければならない、という自己批判を伴うプレッシャーとなって北欧の巨匠を責め苛んでいたのでしょう。
しかしながらこの時期のシベリウスの創作力は、そのような重圧を撥ねのけるまでに充実しておりました。
1923年の第6交響曲に続いて、翌24年には第7交響曲も完成。2年連続での交響曲の発表は、世間にはシベリウスの旺盛な創作意欲を印象づけこそすれ、この作曲家の内面的な苦衷を気づかせることはなかったと思われます。
第7交響曲は1924年3月に書き上げられ、同じ月の24日に作曲者自身の指揮によってストックホルムで初演されました。ただし、このときの曲名は「ファンタジア・シンフォニカ(交響的幻想曲)」というもので、出版の際にようやく「交響曲第7番」とされております。
初演は成功で、シベリウスは妻のアイノに以下のように書き送っております。
「大成功だったよ。今度の新作は、私のこれまで書いた最高の作のひとつだということは否定できない。音響にも音色にも、力が漲っていた」
初演に対する批評も全般に好意的でしたが、これらに対してシベリウスは「批評家の連中は、私がこの新作の中に盛り込んだ内容を、ろくに理解していない」と不満を述べております。
さて、ハイドン以降シベリウスの時代に至る音楽史において、単一楽章の交響曲というのは珍しい部類に属します。
1840年代に現れた2つの交響曲、メンデルスゾーンの第3番(スコットランド)とシューマンのニ短調(後に改訂されて第4番)は全曲が切れ目なく演奏されるという意味において、外見上は単一楽章交響曲の先駆でございます。ただし、単に通常の4つの楽章を休みなしに並べただけのメンデルスゾーンに対し、シューマンの場合には「交響曲を単一楽章で構成する」という明確な意図があり、そのアイディアのもとに交響曲本来の4つの楽章が有機的な関連性をもって構成されている点、ニ短調交響曲は交響曲史上きわめてユニークな試みであったと申さなければなりません。
シューマンのあと、交響曲のジャンルでは、2楽章制(サン=サーンスの第3番)や3楽章制(フランク、ショーソン、デュカなど)のような試みも見られますが、19世紀の大勢としては古典的交響曲の枠組みである4楽章制が主流でございました。また、上記の2楽章制・3楽章制にしても、本来4楽章制であるものを2つの楽章に振り分けたり、あるいはスケルツォ楽章を省略したりというように、骨組みとしては旧来の4楽章制を維持していると申してよろしいでしょう。
20世紀に入ると、注目すべき単一楽章交響曲がいくつか現れます。
リヒャルト・シュトラウスの「家庭交響曲」(1903)と「アルプス交響曲」(1915)、シェーンベルクの「室内交響曲」(第1番、1906)、スクリャービンの「法悦の詩」(第4交響曲、1908)と「火の詩」(第5交響曲、1910)、ニールセンの第4交響曲(1916)、ストラヴィンスキーの管楽器のための交響曲(1920)など。
これらはすべてシベリウスの第7交響曲以前に発表された作品ですが、それらの多くは交響曲というよりは交響詩的に着想されており、標題性を排した絶対音楽的な意味で交響曲といえそうなのはシェーンベルクのものだけではないかと思われます(ストラヴィンスキーの作品ではSymphoniesという語がそもそも通常の「交響曲」を意味していないようです)。
1930年代以降になりますと、単一楽章の交響曲も珍しいものではなくなりますが、少なくともシベリウスが創作活動を続けていた1920年頃の時点では、やはり交響曲というのは多楽章制をとるべきものであり、単一楽章交響曲は例外的、異形のものという認識があったと思われます。したがって、シベリウスが新作の交響的作品を当初「交響的幻想曲」というタイトルで発表したことにも充分な理由があると頷けます。
しかしながら、最終的にシベリウスは、この作品を自身の7番目の交響曲として出版しました。
第3交響曲以来のシベリウスの歩みは、多楽章で構成された交響曲全体をひとつの有機的な生命体のように、いわば植物が種子から発芽し、茎を伸ばし、花を咲かせるように、楽章間にわたって音楽が次第に成長していくような方向性を目指していたと申せましょう。それは第3交響曲、第5交響曲においては複数楽章を融合させるという試みにも表れております。このような探求の結果として、すべての楽章を融合させた単一楽章の交響曲が生み出されるのは、シベリウスにとって論理的必然だったと申してよいかもしれません。
19世紀ロマン派以降の交響曲としては、第7交響曲は非常に小柄な作品といえます。40分から50分、ブルックナーやマーラーに至っては80分を超えるような演奏時間をもつ交響曲の一群の中で、20分少々というシベリウスの第7は、いかにも小粒な交響曲に見えます。実際、「部分部分の即席料理」と批判したネヴィル・カーダスのような意見もないわけではありません。
けれども、虚心にこの作品に耳を傾けてみると、そこには驚くべき広がりが聴き取れるのではないでしょうか。かつて渡邉暁雄氏は、この交響曲を「フィンランドから見た宇宙」と表現しました。まさにそのような巨大さを聴く者に感じさせるという点でも、この曲は文字通り「交響曲」なのでございます。
このたび、「あそびの音楽館」では、第7交響曲を2台のピアノ用にアレンジしてみました。
原曲の面白味はほとんど残っていない編曲ではございますが、暇つぶしにでもお聴きいただければ幸甚でございますm(__)m