シベリウス/交響曲第5番 変ホ長調 作品82 (Jean Sibelius : Symphony No.5 in E flat major, Op.82) | |
1912年の春頃から、シベリウスは新しい交響曲の構想を練り始めました。 前年の1911年に書き上げた第4交響曲は、容易に聴く者を寄せつけない峻厳さのために一般には不評でしたが、シベリウス自身はこの作品に絶対的な自信をもっておりました。しかし同時に、第4とは性格の異なる交響曲をぜひ書きたい、という強い気持ちが衝き上げてきたことも事実ではないかと推察されます。 |
凍りつくような緊張感に満ちた第4交響曲が、死への恐怖の中で書かれたことは間違いありません。それに先立つ数年間、2度の手術を含む咽喉部の腫瘍との闘病が、シベリウスの創作生活にも多大の影響を与えておりました。 第4交響曲はこの危機の時期の創作的頂点と申してよろしいかと存じますが、その完成が厄落としにでもなったかのように、シベリウスは健康を取り戻します。病魔を克服したという喜びと感謝の念が、新しい交響曲への創作意欲をかき立てたであろうことは想像に難くありません。 とはいえ、5番目の交響曲はただちに着手されることはありませんでした。漠然としたイメージはあったかもしれませんが、熟成にはまだ時が必要でした。
1914年の夏、シベリウスは交響曲の「すてきな主題を着想した」と書き、秋になると友人に「神様が少しの間だけ扉をあけてくれるんだが、そこでは天上のオーケストラが第5交響曲を演奏しているんだ」と伝えております。いよいよインスピレーションが舞い降りたようでございます。
ところでフィンランド政府は、翌1915年の12月8日のシベリウス50歳の誕生日を、国を挙げて祝うことを決定しました。祝賀演奏会では新作の交響曲が作曲者自身の指揮によって初演されることになり、シベリウスとしても、仕事のスピードを上げなければならなくなったのでございます。
しかしながら、シベリウス自身はこの交響曲に満足してはおりませんでした。なにかしっくりしないものを感じたのでしょう、1916年の出版予定を取り消し、曲全体の再検討に取り組みました。
ところが、シベリウスはこの第2稿にも満足できず、さらなる改訂作業を続けます。ちょうど第1次世界大戦たけなわの時期で、ドイツの出版社からの印税収入が途絶え、経済的にも窮屈になっておりましたが、生活のために主としてピアノのための小品を量産する傍ら、シベリウスは第5交響曲の改訂作業を粘り強く継続いたします。
第5交響曲は、シベリウスの中期を締めくくる壮麗な作品でございます。
このたび、「あそびの音楽館」では、第5交響曲を2台のピアノ用にアレンジしてみました。
※第5交響曲の1915年初稿による演奏はCDで聴くことができます。現行の第5交響曲との相違を実際に音で確かめるのは、実に面白い経験でございます。 |
(2011.4.4〜4.17) |