シベリウス/交響曲第3番 ハ長調 作品52 (Jean Sibelius : Symphony No.3 in C major, Op.52) |
シベリウスの創作期間を大きく3つに分けますと、おおよそ初期は1890年前後から1904年頃まで(25歳〜39歳)、中期は1905年頃から1919年頃まで(40歳〜54歳)、後期は1920年以降(55歳〜)ということになろうかと存じます。と申しましても、細かい年代については私が好き勝手に決めただけでございまして、この意見にはなんの権威もございません^^; ただし、1904年がシベリウスにとって転機の年であったのは事実でございます。と申しますのも、大酒のみでヘビースモーカーの上に浪費癖まであったシベリウスが、誘惑の多いヘルシンキの社交界を離れて、首都から37kmほど離れた郊外、ヤルヴェンパーの山荘に移り住んだ年だからでございます。 |
この移転は夫の健康を心配した妻のアイノが画策し、シベリウスの友人でパトロンでもあったカルペラン男爵の協力を得て実現したということですが、自然に囲まれた山荘での生活は、心身ともに疲弊していたシベリウスを癒し、作風の上でも新生面を切り拓くきっかけになったのでございました。シベリウスは妻への感謝と愛情を表現したのでしょうか、終の棲家となったこの山荘に「アイノラ」の名を贈っております^^ |
「アイノラ」に移り住んだ翌年の1905年、シベリウスは初めてイギリスを訪れます。イギリスにはグランヴィル・バントック(1868〜1946)のように、シベリウスの音楽の熱烈な支持者がおり、その作品への評価も高まりつつありました。 バントックらの尽力もあり、ロンドンのロイヤル・フィルハーモニー協会は、1907年の3月のコンサートにシベリウスを新作交響曲の指揮者として招待することを申し出、シベリウスもこれを快諾いたします。 シベリウスは1904年から3番目の交響曲に着手していましたので、ロンドン・フィルの要請には充分に間に合うつもりで書き進めておりました。 ところが、この時期には劇音楽の依頼やドイツ、ロシアなどからの客演指揮者としての招聘などが重なり、交響曲の作曲はしばしば中断されてしまいます。 結局、1907年3月ロンドン初演、という当初の予定には間に合わず、完成は同年秋となり、ヘルシンキで9月25日に初演されました。招いてくれたイギリスには義理を欠いたわけで、その埋め合わせというわけでもないでしょうが、この交響曲はバントックに献呈されております。
第3交響曲は中期に入って最初に書かれた交響曲でございますが、第1、第2交響曲の路線を期待していた一般の聴衆を少々戸惑わせる結果となりました。初期のロマン主義的国民楽派ふうの雄弁なスタイルは後退し、饒舌を排した緊密な構成、簡潔なオーケストレーションなど、大衆受けする要素を容赦なく削り取ったストイックな作風が、この作品をいやがうえにも地味に見せるのでございましょう。第3交響曲は今日に至るまで、シベリウスの7つの交響曲の中で、おそらくもっとも演奏回数に恵まれない作品と思われます。 「第3交響曲は聴衆を失望させました。というのも、誰もが第2交響曲のようなものを期待していたからです。私はマーラーと対談したとき、彼にそのことを話しました。すると彼はこう答えたのです。『新しい交響曲を書くたびに、前の曲に心酔している聴衆を失うもんだよ』とね」(1943年の発言) その一方で、聴衆の反応にかかわらず、シベリウスが自らの選んだ方向性に確信をもっていたことが、次の証言から窺えます。 「私の第3交響曲を聴いたあと、リムスキー=コルサコフは頭を横に振って、こういいました。『どうしてもっとまともなやり方で書こうとしないのかね?いずれ君にも、聴衆がついてこれず、理解もできないことがわかるだろう』しかしながら今日では、私は自作の交響曲がリムスキー=コルサコフのものより演奏されていると確信しています」(1940年の発言)
第3交響曲は3つの楽章から成っております。ソナタ形式の第1楽章、強いていえば変奏曲ふうの第2楽章、特異な構成の第3楽章。
「あそびの音楽館」では、このユニークな作品を2台のピアノ用にアレンジいたしました。 ※文中、シベリウスの発言はフィンランドのサイトSibeliusに掲載されているものをJun-Tがテキトーに訳したものでございますm(__)m |
(2009.5.8〜5.30) |