交響曲 第4番 ニ短調 作品120
(Robert Schumann : Symphony No.4 in D minor, Op.120)

第4交響曲は本来2番目の交響曲として構想され、1841年5月29日から9月9日にかけて作曲された作品でございます。ところが、12月6日のゲヴァントハウスにおける初演は失敗し、シューマンはこの作品を封印してしまいました。
それからおよそ10年後の1851年になって、シューマンはこの交響曲を再び取り上げます。シューマンの意識の中ではこの作品はあくまで2番目の交響曲だったようで、オーケストレーションを一新した改訂版の完成後も、出版社には「第2交響曲」として出版されることを希望していたそうでございます。
結局この交響曲は第4交響曲として出版され、1853年3月の初演では大成功を収め、以後ドイツ・ロマン派の交響曲の傑作のひとつとして今日に至っております。

一方、シューマンによって封印された1841年の手稿は、シューマンの没後ブラームスと指揮者のフランツ・ヴュルナー(Franz Wüllner, 1832〜1902年)によって編集され、1841年版として出版されました。
ブラームスは1841年版を高く評価しており、1851年の改訂によって作品本来の美と品格が失われてしまったと考えていたようでございます。
たしかに両者のスコアを見比べて見ますと、1841年版のオーケストレーションはシンプルさで際立っております。1851年版をブラームスのように「野暮ったい衣装」と見るか、それとも「重厚・壮大」と考えるか、なかなかに難しい問題ではございますが、一般には1851年版が演奏され、1841年版(正確には手稿そのままでなく編集の手が加わっておりますが)にはめったにお目にかかることのないのが現状でございます。

さて、交響曲第4番は構成上きわめてユニークな作品となっております。いくつかの楽章を続けて演奏するという前例はございますが(ベートーヴェンの第5、第6やベルリオーズの幻想交響曲)、本格的な規模をもった単一楽章の交響曲というのは、この作品が音楽史上最初ではないでしょうか。
ちょうど1841年の作曲時に相前後して、メンデルスゾーンの第2交響曲(1840年)、第3交響曲(1842年)が作られております。どちらも各楽章を続けて演奏するように指示されていて、ひょっとするとこういうアイディアは当時のライプツィヒ近辺での流行(?)だったのかもしれませんが、複数の楽章を単にアタッカで接続しているに過ぎないメンデルスゾーンと異なり、シューマンの場合はそもそも楽章建てを廃して頭から尻尾までひとつの楽章として書き通している点、シューベルトの「さすらい人幻想曲」の行き方に近いものがございます。実際、全曲を有機的に統一しようという第4交響曲の構想には、「さすらい人幻想曲」をお手本にしたのではないかと思わせるものがございます。

上記のように全曲は単一楽章で書かれておりますが、大きく分けますと4つの部分から構成されております。

第1部:かなりゆっくりと ― 生き生きと(Ziemlich langsam - Lebhaft)
第2部:ロマンス:かなりゆっくりと(Romanze : Ziemlich langsam)
第3部:スケルツォ:生き生きと(Scherzo : Lebhaft)
第4部:ゆっくりと ― 生き生きと(Langsam - Lebhaft)

第1部には以下の3つの主要主題(動機)が提示され、全曲を有機的に統一しております。【 】内は初出箇所でございます。

◆主要主題@【序奏部】

◆主要主題A【序奏部の終わり・提示部の第1主題】

◆主要主題B【展開部】

全曲の構成は非常に独創的で、第1部と第4部が主要主題AとBで相呼応し、第2部・第3部は主要主題@の順次進行とその反行形に基くモティーフが支配的でございます。
第1部はそれだけを見ると再現部の欠如したソナタ形式みたいでございますが、第4部とひとまとまりで巨大なソナタ形式を構成すると考えるとすっきりするのではないでしょうか。展開部の間に中間部分のロマンスとスケルツォが挿入され、全体として単一のソナタ楽章が成立していると見るわけでございます。
このような斬新な構成は当時としては相当に破天荒なものであったと想像されます。実際、1851年の改訂にあたり、シューマンはこの曲を「オーケストラのための幻想曲」と名づける考えももっていたようでございます。

今回は1851年改訂の一般に普及しておりますスコアから編曲してみましたが、1841年版のスコアも手許にございますので、いつかこちらもアレンジしてみたいと思っております。

(2008.5.5)

交響曲第4番 ニ短調 作品120(Symphony No.4 in D minor, Op.120) 

作曲者の没後30年ほどしてから、クララ・シューマンは夫の作品全集の編集を手がけますが、その際、ブラームスに協力を要請いたしました。
第4交響曲については、クララは1851年に改訂された版を絶対視していたのですが、ブラームスは1841年の初稿の方が優れており、ぜひとも全集に組み入れるべきだとして意見が対立いたします。
このときはブラームスが折れたものの、第4交響曲の初稿を諦めきれないブラームスは、指揮者のフランツ・ヴュルナーに働きかけ、その甲斐あって初稿は1889年にケルンで48年ぶりに再演され、好評を得ました。ちなみに、このヴュルナーは音楽を学ぶ人には馴染みの深い「コールユーブンゲン」の作者でございます。
楽譜が出版されたのは1891年のことですが、このスコア(ヴュルナー版と呼ばれます)はシューマンの手稿そのままではなく、ブラームスの主張により一部1851年改訂版の要素も取り入れられたものでした。
シューマンの手稿では、第2部のロマンスにギターのパートがあり(ただし音符は書き込まれておりません)、また第3部スケルツォの冒頭に8小節のファンファーレが置かれておりますが、これらはヴュルナー版では削除されております。

さて、「あそびの音楽館」では、第4交響曲の1841年版をピアノ二重奏用に編曲しておりますが、基にしたスコアは最も新しいもので、2003年に出版されたヨン・フィンソン(Jon Finson)版で、シューマンの手稿とヴュルナー版を校合した労作でございます。この版では、スケルツォに先立つファンファーレは「シューマン自身によって削除されている」という理由で除かれております。
1851年の改訂版に比べると、オーケストレーションが軽めということのほかに、細部でかなりの異同がございます。
特に目立つのは譜割の違いで、第1部と第4部では記譜上の音価が2:1(1841年版:1851年版)になっております。以下がその例でございます。

◆【第1部第1主題】

これで見ますと、1841年版の2小節が1851年版では1小節に圧縮されているのがわかります。おそらくは、初稿での演奏のテンポが意図したものより遅かったため、シューマンはこのような手間のかかる譜割の変更を行ったものと思われます。
また、全曲が連続する4つの部分で構成されている点は同じですが、1841年版では速度指定がドイツ語でなく、伝統的なイタリア語表記となっております。

第1部:アンダンテ・コン・モート ― アレグロ・ディ・モルト(Andante con moto - Allegro di molto)
第2部:ロマンス:アンダンテ(Romanza : Andante)
第3部:スケルツォ:プレスト(Scherzo : Presto)
第4部:ラルゴ ― アレグロ・ヴィヴァーチェ ― ピゥ・ヴィヴァーチェ (Largo - Allegro vivace - Più vivace)

ところで、肝心のオーケストレーションの違いですが、ピアノで演奏しております関係上、ほとんど明瞭でなく、その点では無意味なアレンジとも申せましょうが、もともと無意味な個人的趣味でやっておりますことですので、ただただご勘弁願う次第でございますm(__)m

(2012.11.25)

交響曲第4番 ニ短調 作品120(Symphony No.4 in D minor, Op.120 - First Version 1841) 

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◇背景画像提供:フリー写真素材Canary様
◇編 曲・MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma