ブルックナー/交響曲第5番 変ロ長調 (Anton Bruckner : Symphony No.5 in B flat major) |
1824年にオーストリアの寒村アンスフェルデンでオルガン奏者の長男として生まれたブルックナーは、幼い頃からオルガンを学び、1863年、37歳の頃までいろいろな教師や音楽家に師事し、オルガンのほかに和声法や対位法、管弦楽法などの学習に励みました。 |
やがて、オルガニストとして高い評価を受けたブルックナーは、友人たちの強い推薦によって1868年にウィーン音楽院の教授に任命され、それまでの活動拠点リンツから首都に移り住むことになります。音楽の都への進出は、地方でこつこつと音楽の修行を続けていた44歳のブルックナーにとって、おそらくは希望に満ちた船出と思えたことでありましょう。 その当時、ウィーン楽壇で強大な発言力をもっていたのは音楽学者で評論家のハンスリック(Eduard Hanslick,1825〜1904)で、この人物は徹底した反ワーグナーの旗手でございました。 |
ハンスリックにとってワーグナーの音楽を擁護するものはすべて敵であり、敵に対しては仮借ない攻撃を加えるのがこの人物のやり方でした。 ブルックナーはリンツ時代にワーグナーを知って以来、その音楽に心酔しており、1873年にはバイロイトにワーグナーを訪問して第3交響曲を献呈し、ウィーンに戻るとワーグナー協会に入会するといった具合で、その行動はハンスリックの標的とされるに充分なものでございました。この頃から、ブルックナーは自作に対するハンスリックの執拗な攻撃に悩まされることになります。
ウィーン音学院での教授職だけでは食べていけないブルックナーは、1870年から聖アンナ女教師養成学校でピアノやオルガンを教えて副収入を得ておりましたが、1874年には生活の安定化を図るため、ウィーン大学に職を求めます。ところが、ウィーン大学ではハンスリックが教授をしており、ブルックナーの就職を阻止。ブルックナーは諦めずに何度も出願をしますが、そのたびにハンスリックによって却下されてしまいます。 「一生懸命に借金をして、しまいにはその一生懸命の結果は債務の差し押さえという形になり、私のウィーンへの移住という愚かな振舞いをその地で嘆く、というのが私の最終的な運命となるかもしれません。年に1000フローリンかかるのですが、目下一銭も ―― 助成金なども ―― ありません」(大崎 滋生・訳)
1875年2月13日にこう書いたブルックナーは、その翌日から5番目(実質的には7番目)の交響曲のアダージョ楽章に着手いたします。絶望的な状況が作曲の契機になったことは想像に難くないとはいえ、この新作はブルックナーの交響曲創作の画期を成す、きわめて偉大な一歩でございました。
殴られ続けのようなブルックナーに運が向いてきたのは1880年頃からで、この年ウィーン大学で年俸300グルデンの有給講師に昇格し、翌年には第4交響曲(ロマンティック)が初演され、珍しく好評を得ます。 さて、ブルックナー70歳の年であるこの同じ1894年の4月8日、ブルックナーの弟子であるフランツ・シャルク(Franz Schalk, 1863〜1931)の指揮により、第5交響曲がグラーツで初演されました。なんと完成してから15年以上もの間、人知れず放置されていたことになります。しかもこの演奏会に、ブルックナー自身は体調不良のため出席できず、ついに死ぬまでこの曲を耳にすることはございませんでした。
ブルックナーには習作も含めると、全部で11曲の交響曲がございます(第9番のみ未完成)。作曲者による通し番号のついたものはそのうち9曲(第0番も作曲者の付けた番号ではありますが、ここでは除外いたします)、ベートーヴェンのそれと同じ数でございます。 ブルックナーの交響曲では版が問題とされますが、この第5交響曲も初演の指揮を執ったシャルクによって大幅な変更(オーケストレーションの改変や大規模な削除)が施され、その形で出版されたため、20世紀半ば頃まではシャルク版による演奏が一般的でございましたが、国際ブルックナー協会のハース(Robert Haas, 1886〜1960)、次いでノヴァーク(Leopold Nowak, 1904〜1991)の手によって1878年の手稿に基づく校訂版(原典稿)が出版されるに及び、シャルク版は次第に駆逐されて今日に至っております。
「あそびの音楽館」では、この大作を2台ピアノ8手連弾に編曲して公開することにいたしました。 |
(2012.12.4〜2013.1.23) |
◇交響曲全集に戻ります◇ | |
◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集様 | |
◇編 曲・MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma |