ブルックナー/交響曲第1番 ハ短調
(Anton Bruckner : Symphony No.1 in C minor)

ブルックナーは第1番以前に少なくとも1曲の交響曲を書き上げておりますが、ヘ短調のこの作品は作曲者自身が習作として発表せず、1866年完成のハ短調の作品が番号のついた最初の作品となりました。
ブルックナーは教会オルガニストとしてキャリアをスタートし、1855年、31歳の年にはリンツ大聖堂専属オルガニストに就任。オルガニストとしての名声が確立されます。
一方、世俗的なジャンルの音楽の作曲に関しては素人に近かったブルックナーは、この年から6年間にわたってウィーンのシモン・ゼヒターに師事して作曲の基礎を学び、その後、1861年から63年まで、オットー・キッツラーに楽式やオーケストレーションの教えを受けながら、当時の新しい音楽にも触れるようになります。
ブルックナーが作曲の修行を終了したのは39歳の年で、これは音楽史上でも相当な晩学と申せましょう。
キッツラーに与えられた最後の課題として書き上げたのがヘ短調の交響曲で、これは当初「第1番」の番号が与えられておりました。1865年、ハ短調交響曲を書き進めていた頃、ブルックナーは作曲中の交響曲を「第2」、ヘ短調を「第1」と手紙に書いております。しかしながら、1866年になると、ヘ短調交響曲はブルックナーにとってあくまで「習作」であると認識され、作曲者自身は発表の意図をもたなくなります。

こうして書き上げられたハ短調交響曲は、完成から2年後の1868年、ブルックナー自身の指揮でリンツで初演されました。この年ブルックナーは44歳、当時としては交響曲作家としてのデビューはかなり遅い方だったと申せましょう。
残念ながら、交響曲は大きな話題を呼ぶことはなく、その後再演の機会もないまま時は流れてました。
1877年と84年に若干の改訂が施されたものの、依然として演奏されないままだったハ短調交響曲ですが、第7交響曲の大ヒットによってブルックナーへの注目度が高まり、1890年に第8交響曲を指揮して大成功を収めたハンス・リヒターから「第1交響曲を演奏したい」という意向が寄せられます。そこで旧作のスコアを検討したところ、さまざまな不備(と当時のブルックナーには思えた部分)が散見され、およそ1年をかけて大改訂が施されます。
改訂版は1891年に完成し、その年の12月にハンス・リヒターの指揮で演奏され、それなりの好評も博しました。スコアは1893年に「第1交響曲」として出版され、この版がその後およそ40年にわたってこの作品の決定稿とされておりました。

その後、1935年に国際ブルックナー協会から第1交響曲の「原典版」が出版されました。これはブルックナーが1866年に書き上げた形に基づくもので、今日「リンツ版」といわれるものでございます。これに対して、1893年に出版されたブルックナーによる改訂版は「ウィーン版」と称されております。
円熟したブルックナーの手による「ウィーン版」に対し、「リンツ版」は構成やオーケストレーションに粗野でぎこちない部分が目立つということで、「リンツ版」の登場後もしばらくの間は「ウィーン版」に基づく演奏が一般的な傾向でしたが、時の流れとともに「リンツ版」の価値が見直されるようになり、今日では「リンツ版」による演奏が主流になっているようでございます。

全曲は伝統的な4つの楽章から成っております。両端楽章はブルックナー特有の3主題ソナタ形式によっており、また、部分部分がひとつのまとまりを持ったブロックとして構築され、それらを積み上げるようにして楽章を構成する独自の手法も既にそこに見ることができます。

ここで取り上げておりますピアノ連弾用の編曲は、ジンガー(Otto Singer II, 1863〜1931)の手に成るものでございます。ジンガーが編曲を手がけた時期は20世紀の初めということもあり、当時スタンダードであった「ウィーン」に基づいております。
ピアノで聴く第1交響曲、お楽しみいただければ幸甚でございます。

(2020.11.13〜12.5)

交響曲第1番 ハ短調・全曲連続再生 

第1楽章/アレグロ、モルト・モデラート(I. Allegro, molto moderato) 
第2楽章/アダージョ(II. Adagio) 
第3楽章/スケルツォ:生き生きと(III. Scherzo : Lebhaft) 
第4楽章/フィナーレ:快速に、そして火のように(IV. Finale : Bewegt und feulich) 

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◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集
◇編 曲:O. ジンガー ◇MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma