ボロディン/交響曲 第3番 イ短調 (Alexander Borodin : Symphony No.3 in A Minor) |
ボロディンが3番目の交響曲を着想したのは1884年の夏のことでございます。 この夏、ボロディンは休暇を地方の村(パヴロフスク村)で過ごし、そこで聴いたロシア正教の聖歌のメロディに感銘を受け、この旋律を基にした変奏曲を緩徐楽章とする交響曲を考え始めます。
当時ボロディンは51歳、既に2つの交響曲をはじめとするいくつかの作品で国外にもその名が広まり始めておりましたが、本業の化学者としての大学での業務に加え、大小さまざまな雑務を抱え込んでおりまして、多年にわたる疲労の蓄積が彼の身体を徐々に蝕みつつありました。
「学者になったり、ブローカーになったり、よその子どもの父親になったり、医者になったり、病人になったりするのは至難の技だ。病人で終ってしまうだろう」
なんですか、身につまされるような文面でございますね(T_T)
1886年の3月、出版業者のべリャーエフが未完成のオペラ「イーゴリ公」の版権を大金で買いたいと申し出ます。
ボロディンが音楽に戻ったのは10月になってからで、まず「イーゴリ公」の第2幕を書き上げ、第3幕の一部も作曲しました。
さて、この年の冬休みに、ボロディンは第3交響曲の第1楽章をかなり作曲しました。
2月15日、大学で仮装舞踏会が催され、ボロディンはこの会に出席します。
没後、第3交響曲の第1楽章は、残されたスケッチとピアノで演奏された時の記憶から、グラズノフが補作とオーケストレーションを行い、演奏可能な形に復元いたしました。また、スケルツォについては、生前のボロディンが意図しておりましたとおり、1882年作の「弦楽四重奏のためのスケルツォ」にオーケストレーションを施して、第2楽章といたしました。 |
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上に述べましたようないきさつから見ましても、この曲を純正の「ボロディン作」と申してよいかどうかは疑問の残るところでございます。 けれども、特に第1楽章にそこはかとなく漂う大陸的な哀愁はたいへん魅力的でございます。 豊麗な第1、雄渾な第2に対し、清澄なこの第3交響曲は、ボロディンのインティメートな一面を見せてくれる佳作と申してもよろしいのではないでしょうか。 |
(2004.6.29〜7.7) |
第1楽章/モデラート・アッサイ (I. Moderato assai) | ||
第2楽章/スケルツォ:ヴィーヴォ (II. Scherzo : Vivo) | ||
交響曲第3番イ短調・全曲連続再生 | ||
◇「ボロディン/交響曲全集」に戻ります◇ | ||
◇背景画像提供:フリー写真素材Canary様 | ||
◇編 曲・MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma |