ボロディン/交響曲 第2番 ロ短調 (Alexander Borodin : Symphony No.2 in B Minor) |
1869年1月に第1交響曲が初演された直後から、ボロディンは2番目の交響曲の構想を練り始めました。 同じ年の4月のこと、バラキレフのグループのひとりスターソフがオペラの題材として「イーゴリ軍記(イーゴリ遠征物語)」を提案し、ボロディンはそのオペラ化に熱中いたします。当時ボロディンは35歳、研究者・教育者として社会的地位も重みを増し、それに伴って大学での仕事も多忙を極めておりましたが、本業の傍ら「イーゴリ公」の基礎資料を調べたり、古いロシアの音楽を探求したりと、ボロディンのこのオペラに対する情熱は高まるばかりでございました。
ところが1870年の3月になって、ボロディンは「イーゴリ公」の作曲を断念いたします。
「(「イーゴリ公」の)材料は無駄にはならないよ。これは全部僕の交響曲第2番の中に取り入れられるんだから」----ゾーリナ/佐藤靖彦訳「ボロディン・その作品と生涯」(新読書社)より
オペラ作りを断念したボロディンは、前年から作曲中の新しい交響曲に精力を注ぎます。
秋になると、ボロディンは交響曲のオーケストレーションに取りかかります。これについては、リムスキー=コルサコフがまたとない相談相手になりました。ボロディンとリムスキー=コルサコフは、さまざまな金管楽器を自宅に持ち込み、実際に音を出しながら、効果的なオーケストレーションの検討に余念がなかったということでございます。
1874年の10月のこと、ボロディンは「イーゴリ公」の作曲を再開いたします。
1876年の秋、ボロディンの第2交響曲は翌年2月のロシア音楽協会の演奏会で、著名な指揮者ナプラーヴニクによって初演されることが決定いたしました。
窮地を救ったのは、なんとボロディンの病気でございました。
「具合が悪くて、ベッドに寝ています。ところが不幸なことには、高熱で体がぞくぞくするのです。ですが、時々あわてふためいて、交響曲第2番のなくなってしまった部分のためのオーケストラ用の総譜を書いています」(ボロディンの書簡から)----ゾーリナ/前掲書より
並の人間なら仮病を使いそうな状況ですが、本物の病人になるまで勤務を休まないところが、いかにも誠実なボロディンらしくてよろしいですね^^
なんと、初演は失敗に終ったのでございます(T_T)
「私たちはみな不満でした」(リムスキー=コルサコフ)
この結果に、ボロディンは打ちのめされました。
「あなたの交響曲の未来の運命をお祝いしたいと思います。私の言うことを信じてください。(中略)ある部分がひどく演奏されても、私たちの啓蒙されていない聴衆がそれに共感を示さないとしても、これは総てどうでもよいことです。それでもやはりこれが演奏されてよかったのです。いずれにせよ、これはすぐに成功を納めることになるのですから。この手紙を仕舞っておいてください。そして、10年後に読んでください。そうすれば、私が正しかったことがお分かりになりますわ」----ゾーリナ/前掲書より
友人をもつならば、こういう人物にしたいものでございますm(__)m |
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第2交響曲は「イーゴリ公」と並ぶボロディンの代表作でございますが、同時にこの両者には、内的に深い関連性がございます。 ボロディン自身の言葉にもありますように、交響曲は「イーゴリ公」創作の過程で生まれたものであり、オペラの素材と雰囲気とを共有しております。 ボロディンはこの作品について「第1楽章ではロシアの勇者たちの集まりを、第3楽章では吟遊詩人の形象を、フィナーレでは勇者たちの饗宴を描きたい」と語っております。 ムソルグスキーはこの曲を「英雄交響曲」とよび、仲間内では「エースの交響曲」「ライオン交響曲」などといわれることもあったそうでございます。 ボロディン自身は題名を与えておりませんが、今日ではスターソフの名づけた「勇士」というニックネームで知られております。 |
(2004.9.19〜2005.5.31) |
第1楽章/アレグロ (I. Allegro) | ||
第1楽章/アレグロ(忠実版)(I. Allegro) | ◇忠実版について | |
第2楽章/スケルツォ:プレスティッシモ(II. Scherzo ; Prestissimo) | ||
第3楽章/アンダンテ−第4楽章/フィナーレ:アレグロ (III. Andante - IV. Finale ; Allegro) |
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交響曲第2番ロ短調・全曲連続再生 | ||
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◇背景画像提供:フリー写真素材Canary様 | ||
◇編 曲・MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma |