ボロディン/交響曲 第1番 変ホ長調
 (Alexander Borodin : Symphony No.1 in E flat Major)

1862年の冬、29歳のボロディンは当時注目を集めつつあった若い作曲家バラキレフと知り合います。この出会いが、化学者ボロディンの作曲家としての出発点となったのでございます。
バラキレフの許には志を同じくする音楽家たちが集まり、ひとつのグループを形成しておりました。キュイ、ムソルグスキー、スターソフ、リムスキー=コルサコフがその面々でございます。
彼らの中にボロディンが加わったことで、世にいう「力強い仲間たち(ロシア五人組)」が勢揃いしたことになりました。

さて、ボロディンに大きな才能を感じたバラキレフは、さっそく交響曲の作曲を勧めます。音楽の経験があるとはいえ、まったくのアマチュアである人間にいきなり「交響曲を作れ」というのはなんとも無茶苦茶なようですが、これがバラキレフのやり方でして、実はムソルグスキーもリムスキー=コルサコフも、同じような勧めに従って交響曲に手を染めておりました(ムソルグスキーは、スケルツォは書いたものの挫折しております)。
それはともかく、ボロディンは大胆にも交響曲の作曲に同意し、その年の年末から創作に着手いたします。

順調に作曲が進めば、ひょっとするとロシア初の交響曲になったかもしれないボロディンの第1交響曲でしたが(リムスキー=コルサコフの第1は1865年、チャイコフスキーの第1は1866年にそれぞれ完成)、なにしろ化学者として大学で教鞭を執るという本業を抱え、いつも多忙なボロディンのことでございます。作曲はしばしば中断され、この交響曲の完成はチャイコフスキーに遅れること1年の1867年になりました。
作曲に要した年月は足かけ5年、ボロディンは34歳になっておりました。

初演はさらに遅れて1869年、ロシア音楽協会のコンサートでバラキレフの指揮で行われております。この演奏は大成功とはいえなかったものの、ともかく自作が公開の席で演奏され、聴衆の拍手を浴びたという経験は、ボロディンを大きく力づけたようでございます。

1877年、ボロディンはワイマールに大御所リストを訪問いたします。このときリストはボロディンの交響曲第1番を絶賛し、次のように語りました。

「たとえあなたの作品が演奏されないとしても、出版されないとしても、共感を受けなくても、仕事をしてください。私を信じてください――あなたの作品は自分で『栄誉ある道』を切り開きます。あなたには巨大な独自の才能があるのですから、誰の言うことにも耳を貸さないで、自分のやり方で作曲してください」----ゾーリナ/佐藤靖彦訳「ボロディン・その作品と生涯」(新読書社)より

なんとも、ほろりとくるようなセリフでございますね(/_;)
そしてリストは、言葉ばかりでなく、実際にボロディンのために尽力したのでございます。
1880年5月のバーデンバーデン音楽祭で、リストの強力な後押しにより、プログラムにボロディンの交響曲第1番が加えられました。このコンサートは大成功を収め、それを契機として第1交響曲はヨーロッパ各地で演奏され、ボロディンの名は急速に世界的になっていくのでございます。
このときボロディンは47歳。第1交響曲の完成から13年が過ぎておりました。

*  *  *  *  *
今日ボロディンの交響曲といえば、なんと申しましても第2番が飛び抜けて有名でございます。
たしかに、独自性や曲のもつインパクトの強烈さで、第1が第2に大きく水をあけられていることは否定しようもありませんが、単独の交響曲として見た場合、第1交響曲の魅力もけっして捨てたものではございません。

この交響曲は、若々しい活力と豊穣さに溢れております。同時に、緻密な多声的書法と堅固な構成感がたいへん見事でございまして、シンフォニスト・ボロディンの原点として、充分に価値ある力作と申せましょう。

(2004.8.7〜8.28)

第1楽章/アダージョ―アレグロ(I. Adagio-Allegro)
第2楽章/スケルツォ:プレスティッシモ (II. Scherzo ; Prestissimo) 
第3楽章/アンダンテ (III. Andante) 
第4楽章/アレグロ・モルト・ヴィーヴォ (IV. Allegro molto vivo)

交響曲第1番変ホ長調・全曲連続再生 

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◇背景画像提供:フリー写真素材Canary様
◇編 曲・MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma