電車が途中の停車駅で止まってドアを開ける度に、車内に詰め込まれていた俺達も荷崩れした荷物のごとくグチャグチャに引っ掻き回されていた。五つ目か六つ目の駅を過ぎた辺りだったと思うんだけど、人の壁に圧迫され続けていた俺の目の前に三センチ位の隙間が出来たんだ。
〜人の隙間〜 渇いた砂漠に湧いたオアシスじゃないけど、とにかく「恵み」だった。あの時に俺の体と心が感じていた苦痛のレベルはそれくらいギリギリだった。
俺はその小さな隙間へむさぼりつくように顔も体も寄せて、完全に奪われてしまっていた俺の「距離」を取り返そうとしていたんだ。 ・・・何のことかって? ・・・人間を含めて、「今この瞬間」この世界に存在する命は全て同じ「時間の流れ」の中に身を置かれてる。例え時間を計る単位や尺度を何万通りに増やしても、必ず ○秒=□分=△時間・・・こうして全てイコールで結び付けられてしまうんだ。 ・・・時間は全ての生命に対して残酷なまでに平等なんだ。「どれだけの時間を過ごしたか」だけにこだわって考えると、たとえ道端に転がった犬のフンにたかっているハエだろうと、どんなに偉大な発明をした科学者だろうと、たった今、人を殺した殺人犯だろうと「全部一緒」になってしまうんだ。 「その時間を過ごしたプロセスや密度」なんてものはおろか、善悪から愛や憎しみ、努力、そして当然、「自分自身」なんてものすら全てが無意味になってしまうんだ。 人が自分自身の内面と、また自分以外の人とコミュニケーションをとり、触れ合いながら共有し合ってゆく時間の中で、何に心を奪われ、何を探して、何を求めているかってことを一人きりで考えてみる・・・。 すると、人が探し求めてゆくモノはやっぱり「心 」を揺り動かす感動、輝き、光、だろうって思うんだ。 遥か遠い昔の時代から現在に至るまで、スポーツやアートがずっと人々に愛され続けてきたのも、その現れなんじゃないかな。 ・・・「命」という限られた時間の中で、人々が自分の自由な意志や発想、感性で願望を抱き、技を磨きながら、自分が掲げたテーマを「距離」や「速度」、「色」や「音」などのあらゆる角度から「表現」したり「追求」してゆく。 そうして、ひとつひとつ自分自身で結果を出してゆくことで、様々な達成感、充実感、喜び、自信、悲しみ、怒り、挫折、悔しさ、強さ、 ・・・そんな「心の財産」を増やしながら、自分なりの「確かなもの」を手に入れてゆくことが出来る。みんな、自分の心や能力みたいなものを何らかの形で知りたいと思っているんじゃないかな。 ・・・ほら、よく聞く言葉で「あの人は輝いている」という表現が有るよね。あの「輝いている」人が放つ光の「眩しさ」や「明るさ」って、夢や目的に向かって走っているその人の「速さ」なんじゃないかと思うんだ。 物質と物質が触れて摩擦が起こると熱が生まれて、摩擦が激しくなってゆくと「発光」したりもする。あの現象と同じように、時間が流動してゆくその中で、人が歩いたり走ったりすることによって、時間と人も摩擦しいるんじゃないか・・・って思うんだ。 そして、時の中で誰よりも遠くを目指して誰よりも速く走ってゆく者だけが、時間との摩擦で光を放つ事が出来るんじゃないかって・・・。そして彼らが放った光も、やがては無限の可能性を秘めた、子供達が目指す「夢の光」となって、みんなが少しずつ、本当の幸せに近づいてゆけたら・・・。 そんなことを、最近俺は悲しいほど切実に考えているんだ。 全ては僕が勝手に描いた理想と空論でしかないけれど、始まりや終わりなんてものは、いつだって狭い机の上いっぱいに散らばったゴミ屑のような紙切れの下あたりに転がっている気がする。時には自分で踏ん付けていて見つからなかったり。みんな、始まりを迎える瞬間にさえも、遠くの輝きを見つめてしまっているんじゃないかと思うんだ。それで最初の一歩目から階段を踏み外して転んだりして。 誰かがすごくいい言葉を残しているじゃない・・・、千里の道も一歩から・・・。 話がかなり散乱してしまったけど、俺にはいつ何処にでも歩き出せるように一歩踏み出せるくらいの距離と隙間は大切なものなんだ。 見知らぬ人と密着していた俺の両腕は汗でベトベトに濡れていた。 ・・・この汗は俺がかいた汗なのか? 湿度と臭いと圧迫感と吐き気で自分の顔が青ざめてゆくのが分かった。 時折、線路のカーブで電車が揺れると同時に乗客も一斉に右へ左へとシェイクされた。 その一瞬の間に、俺から四、五メートル位離れた所で、ちらちらと見え隠れしている女子高生が押し込められていた場所は、僕から見ても同情するくらいの最悪な位置だった。彼女を囲むように立っていたのは、前後左右全員ハゲ頭と顔が脂ぎった醜く腹が出た中年オヤジだっんた。 他人の容姿を醜く批判するのは好きじゃないけど、彼らに関してはこれでもソフトに表現しているくらいだった。「不潔」の代名詞と言い表したとしても過言ではない。きっと彼らを知っている人が聞いても、表現が間違っているなんて言い出す人は一人もいないだろう。 そんな彼らに囲まれるように立っていたその女子高生の一四五センチ位しかない小さな体は、車内が揺れる度に贅肉の塊の中へ埋もれてしまって・・・。 一方で不潔な彼らも、彼女を庇ってあげようとする事もなく、揺れるがままに容赦なくプレスしてゆく。「メダカバーガー」・・・。 見たことも食べたこともないけど、そんな感じに見えた。 ・・・どうして、あんな少女まで、こんな空間に属さなければならないんだ。恋やオシャレに目覚め始めた一番多感な大切な時期に・・・。今、俺は人生で最悪に思える苦痛を抱えている。 それだけではなく、同時にすぐ目の前で、あの少女も俺と同じ、いや、それ以上の苦痛を強いられている。・・・あんなにきゃしゃで小さな少女が。 ・・・何故? ・・・何かに裁かれているとでも言うのか? ほんの二秒間程だったと思う。彼女が贅肉の塊の中へ姿を消されてゆく途中の瞬間だった。あの少女と俺は目が合ったんだ。 ・・・ど、どうすれば。 ・・・タスケテ オネガイ・・・ 彼女の表情はまるで、凶器で脅されながら悲鳴も立てられず抵抗も出来ないないままレイプされているようだった。ワラにも縋りたい気持ちで、無言の助けを求める表情だっだ。 今まで会ったことも、話したことも、名前すらも知らない俺に・・・。少女の顔もすっかり青ざめていた。 ・・・どうすれば。そして、潰されてゆく瞬間、彼女の顔は、ふっと諦めた表情に変わって汗と贅肉の間へ躰ごと飲まれていった。「メダカバーガー」・・・。 ・・・俺は、どこまで無力なんだろうか、俺が救えるモノって何がある?俺の周りに立っている他の乗客は、眉毛ひとつ動かすこともなく、相変わらずの無表情で、見てない振り・・・。 というよりも、意識のスイッチをOFFにしているんだ。彼らから見れば、そんなことよりも、今月から給料が一万円減ってしまった事のほうが、ずっと大きな問題だろうし、 今日のランチはハンバーグ定食かミートソースどっちを食べようか、という悩みの方が深いのだろう。 ・・・いつ何処からでも足を踏み出して行ける一歩分の距離と隙間は、決して埋めてはならない・・・。俺は自分に言い聞かせるように心へ歌を刻んでいた。 |