俺が「深夜のコンビニ」に誘われるように出向いてしまうようになったのは、 ただ単に俺の生活サイクルが不規則だということを表面的な理由に挙げるとして、 もうひとつ潜在的な理由も一緒に考えてみると、深夜のアルバイター達の中から、 いい意味で癖が強かったり、客に対して変に媚びた態度や安っぽいスマイルを見せたりせず、 俺と同じような匂いを持った連中に結構多く会うことが出来るから・・・ということも有る気がする。 当然彼らの殆どが「社員」ではなく、今、世間で物凄く煙たい存在のように言われている“フリーター”と呼ばれる連中のことだ。 しかし、そんな彼らを別の視点から捕らえて見てみると、限りなく完全歩合の能力給システムの中で、 自分が持っている揺るぎない価値感やプライドを貫いて、首になれば次へ、また次へと犬死にする事なく、 「戦い」を自分一人だけで覚え、更に新たな価値感を着々と確立させながら、異常な生命力と決断力も培われていると考えるのは誤りだろうか。

テレビニュースや雑誌で、潰れるはずのない一流企業が砂の城のごとくバタバタと倒産してゆく経緯や、 突然職を失くして路頭に投げ出された元社員達のコメントや泣き言を報道しているのを頻繁に目にするようになった。 エリートと呼ばれてきた彼らが再就職先すら二カ月、三カ月と探せないままでいる。 そして、二言目には「保証」だとか「責任追及」、会社の影形が消えてしまった今でも脳裏に焼き付いた幻にでも訴えるかのように、 まるで挨拶代わりの台詞と化している。
そんな彼らを見て、俺は気の毒に思えて仕方なかった。彼らの新しい職が決まらないことに対してや、 突然収入がなくなってしまったことに対してではない。はっきり言って、たとえ彼らが飢え死にしようが、 そんなことは知ったこっちゃない。俺が彼らを気の毒に思うのは「企業」と言うバッジを付け、その中に自分が属していただけで、 自分がたまたままとめて来た大きな契約や商談、交渉、積み重ねてきた殆どの成績は 「会社のネームバリュー」という強力な武器が有ったからこそで、 丸裸になった自分自身の実力は全く無に等しいという事を知らずに働き続け、四十歳や、五十歳を過ぎても会社が潰れるまで、 気がつけなかったということに対してである。
そんな彼らは今、大学の入学試験を終えたと同時に捨て去ったハングリー精神と向上心を、 醜いほどの贅肉で覆われた心と体で取り戻そうとする気力すら失くし、ただ救済を待っているだけの「 社会のお荷物」にまで成り下がってしまった。いや違う、あの悲しい姿こそが彼らの実体だったのだろう・・・。

哀れな彼らの後ろ姿から流れていた「エンディングソング」を俺は自分自身の「オープニングソング」として聴き入っていた。