霧が立ち込めたように部屋の空気が透明度を失っている。 どれくらい煙草を吸ったのかは覚えてないけれど俺の身体だけははっきりと、この状況に反応を示していた。 窓硝子の中に目が真っ赤に充血して酷くやつれた俺の顔が映っていた。 だけど今は、俺の心の内側から語りかけてくる「もう一人の俺」がささやく声だけに全神経を集中させなければならないんだ。 外部の余計な音を遮断するために電話のコードさえも引っこ抜いてしまっていた。
くすぶった煙をひたすら上げ続けている テーブルの上の灰皿。あちこちに置きっ放しになっている飲みかけの缶コーヒー。そして俺の傍らに横たわる 一本の古びたギター。
まるでスラムと化した狭い部屋の中で俺は、互いに求め引かれ合った「ひとつの詩」と「ひとつのメロディー」を静かに重ね合わせ、 新しい「歌」の誕生を迎えようとしているんだ。街は沈黙する闇に息を潜め静まり返っている。 「歌」の誕生の瞬間は、いつも決まって深夜の時間帯の片隅にひっそりとあった・・・。 まるで詩とメロディーの間に生まれる「子供」の出産に立ち合う助産婦役と、生まれて来た子供の名付け親のような作業に、 俺は何時からともなく没頭していた。

俺は自分がミュージシャンだとも詩人だとも思っていない。 「じゃ、お前は何なんだ」って問われたら、正直「これだ」と即答出来る肩書きが見つからないんだ。 それでも強いて何か肩書きを考えてみるとするならば、「歌人」という呼び方がそこそこ妥当な表現なんじゃないかと思う。 そう、俺はずっと「音」でも「詩」でもなく、あくまで「歌」を追及して来たから・・・。
「音」と「詩」が互いに愛し合い結ばれて生まれて来たような「歌」を今日までずっと追求してきたんだ。そして、またひとつ新たなが密やかに産声を上げた・・・。 俺の躰の隅々まで網羅した全神経に巡り回っていた「感性」が、長時間に渡ってMAXレベルをオーバーした状態だったせいで、 神経は暴走寸前にまで消耗していた。

歌を作ることを最初に始めた細かいきっかけや時期は、過ごして来た時間と供に風化してしまって、 脳裏の何処かに刻まれていたはずの記憶も、今はおぼろげな形でしか残っていない。 ただ、歌が出来上がった直後には、必ず異常な程の空腹感や疲労感、時には失望感のようなものまでもが、まるで津波のように心に押し寄せて来るんだ。 だけれどそれと同時に、それまで俺を捕らえて縛り付けていた「何か」から解き放たれてゆくような、 あるいはそれまでずっと閉じ込められていた真っ暗な部屋の壁を叩き壊して、やっと明るい世界へ脱出できたような、 そんな解放感が、俺の胸をほんの一瞬だけかすめて、すぐに儚く消えて行くような・・・。 歌が出来上がった時は必ず、いつもこんな感覚に触れて来たんだ。 また、作った歌に違和感や妥協感を残したままで「誕生」させたり、不完全燃焼な形で終わらせたりした時には決まって妙な受縛感にずーっと追われるはめになった。 まるで、歌ひとつひとつに俺の魂を要求されているかのように・・・。 だから俺は歌にタイトルを書き入れる瞬間には自分の命の破片を削って、そっと分け与えるつもりで、その歌それぞれへの思いと願いを込めて綴ってきた。 いつからかは覚えていない・・・。

手汗でベトベトになったペンを無造作に部屋の隅へ放り投げ、 飲みかけの缶コーヒーで灰皿の中でくすぶった吸い殻の煙を消し去って、 静かに「普段の俺」が解放されてくるのを待った。時間の経過と供に「感性」に支配されていた神経が、再び本来の持ち場へと戻ってゆくのが解る。 するとぼちぼち、いつもの空腹感が入れ替わりで押し寄せて来る。
それまで歌作りに没頭し過ぎて完全に無視していた「俺の身体」もようやく、メンテナンスを迎えることが出来る。
空腹を抱えた俺はノコノコと部屋を出て深夜営業のコンビニへ向かって歩き出した。
ため息が零れてしまわぬように、さっき新しく生まれたばかりの を口ずさみながら・・・