「ニーベルングの指環」概略 |
ワーグナーの「ニーベルングの指環」は、申すまでもなくヨーロッパ音楽史上最大規模の作品でございます。 「序夜と3日のための舞台祝典劇(Ein Bühenfestspiel für drei Tage einen Vorabend)」というサブタイトルでもおわかりのように、全曲の上演にはなんと4夜を要し、仮に休みなく演奏しても全体で15〜16時間はかかろうという超大作となっております。
ワーグナーが「指環」を最初に着想したのがいつ頃なのか、寡聞にして存じませんが、「ローエングリン」完成後の1848年(ワーグナー35歳の年)には「ニーベルンゲン神話」という題で「指環」全体の要約が書かれており、続いて最初の台本に着手しておりますので、ジークフリートを主人公としたオペラの発想そのものはかなり早い時期からあったのではないかと推察されます。
とはいえ、自己主張の強烈なワーグナーのこと、「ニーベルンゲンの歌」をそのままなぞったような話を作るわけがございません。 |
ワーグナーにとりまして、台本執筆という作業は作曲の一部でございました。台本を書き終わったときには、そのオペラの音楽の骨子も脳裏に出来上がっていたらしいのです。 まだ曲も書いていないのに完成した台本だけ出版するというワーグナーの習慣にも、そうした独自の作曲プロセスの一端が窺われる気がいたします。
ところが、「ジークフリートの死」につきましては、そのような従来のやり方では解決できない問題が発生いたしました。 |
「若きジークフリート」の台本が完成してみると、それだけではまだ不足だということが明らかになりました。 いつの間にか、ワーグナーの脳内世界では、このオペラのテーマがジークフリートという一人の英雄を主人公としたドラマから、より大きな構想に広がっていたのでございます。 それは世代を超えた因果の物語でございまして、これを描き切るには単にジークフリートの生い立ちばかりでなく、ジークフリートの両親の物語が必要となったのでありました。
そこで、ワーグナーは「若きジークフリート」の前段階となる物語、「ワルキューレ」の台本に取りかかります。 |
「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」で完成したかに見えた「ニーベルングの指環」の台本ですが、ジークフリートの両親の物語まで書いてしまうと、今度は呪われた指環の由来、すなわちこの巨大な物語のそもそもの発端まで描くべきではないか、という考えがワーグナーに浮かびます。 常人ならばとっくに投げ出しているであろう構想の拡大も精力絶倫のワーグナーの推進力を妨げる障害とはならず、ついにワーグナーは全体のプロローグ、あらゆる因果の発端の物語「ラインの黄金」を書き上げます。
こうして「ニーベルングの指環」の台本は「ラインの黄金」を序夜とする3部作、実質的には空前絶後の4部作として完成したのでございました。 |
台本の完成後、ワーグナーはただちに作曲に取りかかります。 「ラインの黄金」(1853〜54)、「ワルキューレ」(1854〜56)と作曲は順調に進み、1857年には「ジークフリート」第1幕も完成いたしました。まさに驚異的なスピードでございます。 ところが、「ジークフリート」第2幕に入ったところで、突然作曲は中断いたします。
ヴェーゼンドンク夫人との不倫、それに霊感を得た「トリスタンとイゾルデ」の作曲、不倫が発覚したことによるヴェーゼンドンク夫人との別れと妻ミンナとの別居、経済的困難から脱却するための演奏旅行、起死回生を狙ったパリでの「タンホイザー」上演の大失敗等々、さまざまな事情が重なったこともあったでしょう。
生来の浪費癖と収入の不安定さから経済的に行き詰まっていたワーグナーに、突然救いの神が現れます。 |
バイエルン国王という強大な後ろ盾を得たワーグナーは、もはや無敵の存在となりました。 「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を宮廷劇場で次々に初演、大成功を収めます。 国王自身が熱狂的なワーグナー・フリークなのでございますから、国王臨席の上演で成功しないわけがございません。 そしていまや、大作「ニーベルングの指環」上演は、バイエルン王国の国家的プロジェクトとなったのでございます。 ところが、好事摩多し、ワーグナーにぞっこんの国王と浪費としか思えない財政支出に業を煮やした廷臣たちの暗躍により、ワーグナーは王国から追放されてしまいます。
スイスのトリープシェンに居を定めたワーグナーは、ここでリストの娘でハンス・フォン・ビューローの妻でもある21歳年下のコージマとともに暮らしながら、バイエルン王国の掌返しにもめげることなく「指環」に取り組みます。 やがて、ルートヴィヒ2世から和解の手が差し伸べられ、ワーグナーは再び金銭的援助を受けることができるようになりました。 |
ワーグナーの意向により、上演のための劇場をバイロイトに建造することになります。これはオーケストラ・ピットを舞台の下に配置し、ギリシアの円形劇場を模した特異な構造になっており、いうまでもなくワーグナーの作品専用の劇場でございます。 古今東西、自分の作品の演奏だけのために国家予算を投じて劇場を作らせた作曲家などという者は、ワーグナーただ一人ではないでしょうか?
中断していた「ジークフリート」の作曲も再開され、1869年に完成。続いて「神々の黄昏」に着手し、これも1874年に無事完成いたします。このときワーグナーは61歳。
そして1876年夏、落成したバイロイト祝祭歌劇場において、ついにワーグナーの超大作「ニーベルングの指環」が初演されました。記念すべき第1回バイロイト音楽祭でございます。 |
各国から王や王妃、王子や王女、大臣級の人物を招待し、一般人も多数参加した盛大な初演となりました。ワーグナーはもはやバイエルン王国のみならず、ドイツ全土を代表する音楽的英雄となったのでございます。 ただし、初演は大赤字となったため、第2回目のバイロイト音楽祭は1882年まで開催できず、しかもそのときには資金上の問題で「指環」の上演は見送られました。「指環」がバイロイトで再演されたのはなんと1896年のことでございます。 とはいえ、今日では「指環」をメイン・イヴェントとするバイロイト音楽祭は毎年夏に開催され、多くの音楽愛好家を集めております(これを「バイロイト詣で」とも申します)。
ちなみに、1876年の初演には、新聞の音楽批評欄を担当していたチャイコフスキーも取材のために参加しております。 |
◇「ニーベルングの指環」に戻ります◇ | |
◇背景画像提供:フリー写真素材Canary様 | |