チャイコフスキー/組曲第3番 ト長調 作品55
(Tchaikovsky : Suite No.3 in G major, Op.55)

1877年の交響曲第4番から1888年の第5交響曲まで、10年以上にわたってチャイコフスキーの作品表から番号付き交響曲は姿を消します。この間、チャイコフスキーは何度も交響曲の創作を試み、失敗を繰り返しました。交響曲はチャイコフスキーにとって、オペラとともにもっとも重要な創作ジャンルであり、第4交響曲に続く新作交響曲を書きたいという強い意志はあったものの、どうしてもうまくいかなかったのです。
40歳を迎えたチャイコフスキーは自らの才能の枯渇を疑い、不安に駆られることもあったようです。この時期の作品をざっと見てみますと、序曲「1812年」、弦楽セレナード、「イタリア奇想曲」、ピアノ協奏曲第2番、ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の生涯」、「マンフレッド交響曲」など、有名作や大作が少なくありません。「マゼッパ」や「魔女」のようなオペラも作られています。しかし、根底のところで、交響曲を書けないということがチャイコフスキーに心理的な負担を与えていたことは事実と思われます。

一方で、交響曲第4番、オペラ「エウゲニ・オネーギン」、ヴァイオリン協奏曲など、一連の傑作群を書き上げた直後の1878年、「ラハナーの様式で組曲を書く」というアイディアがチャイコフスキーを捉え、その結果として翌1879年、6楽章からなる組曲第1番が完成されました。バロック時代の管弦楽組曲の形を借りて、自由に曲を構成することのできる組曲という形式は、過度の精神的負担をもたらさず、しかもいろいろな音楽上のアイディアを試みることができるという点で、チャイコフスキーには好ましいものだったと思われます。ちなみに、ラハナー(Franz Lachner;1803〜1890)という人は、シューベルトの親友で、管弦楽組曲を含む膨大な作品を残した人のようです。
1883年に2番目の組曲を完成したチャイコフスキーは、翌1884年の初夏、いよいよ念願の交響曲に着手します。しかし、作曲を進めるうちに、これは交響曲にはならないという思いが強くなり、当初の計画を諦めて、管弦楽のための3番目の組曲にまとめることに方向転換いたします。
交響曲をやめて組曲にすることに決めたあと、チャイコフスキーは精神的負担から解放されたかのように、非常にスムーズに作曲を進めることができました。まず「スケルツォ」、続いて「憂鬱なワルツ」、「エレジー」と順調に進み、第1楽章にあたる「コントラスツ」に取りかかりますが、ここで非常に手こずり、ついに当初の5楽章構成を放棄して、「エレジー」から始まる4楽章構成に改めます。最終楽章の「主題と変奏」は大規模ながら筆の進みはたいへん好調で、全曲の作曲は年内に終わり、チャイコフスキーはこの作品の成功を確信していたそうでございます。
翌1885年1月の初演では、その成功はチャイコフスキーの予想をはるかに超えるものになりました。聴衆は熱狂し、どの批評も作品を絶賛し、作曲者の弟モデストによれば、「ロシア交響楽における史上最大の成功」だったということでございます。今日のこの作品に対する聴衆の興味・関心を思うと、その落差には少々奇異の念をもたざるを得ないという気がいたします。

第3組曲は4つの楽章から成っております。
「エレジー」「憂鬱なワルツ」「スケルツォ」の3曲に続いて、「主題と変奏」が全曲を締めくくります。この第4楽章はきわめて長大で、ほぼ同時期のピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」の終楽章を想起させます。

ここで取り上げておりますピアノ連弾版は、チャイコフスキー自身による編曲でございます。
ピアノで演奏された組曲第3番、お楽しみいただければ幸甚でございます。


組曲第3番ト長調作品55・全曲連続再生 

第1楽章/エレジー(I. Élégie : Andante molto cantabile) 
第2楽章/憂鬱なワルツ(II. Valse mélancolique : Allegro moderato) 
第3楽章/スケルツォ(III. Scherzo : Molto vivace) 
第4楽章/主題と変奏(IV. Tema con variazioni : Andante con moto) 

◇「あそびのピアノ連弾」に戻ります◇
◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集
◇編 曲:P. I. チャイコフスキー ◇MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma