スメタナ/わが祖国 (Bedřich Smetana : Má Vlast) |
チェコ国民楽派の父というべきベドルジハ・スメタナは、1824年にボヘミアで醸造技師の家に生まれました。オーストリアの大作曲家ブルックナーと同年生まれですが、ブルックナーがワーグナーに心酔したのに対して、スメタナはリストの音楽に大きな示唆を得ており、とりわけリストの開拓した交響詩には強い影響を受けております。
青年期のスメタナはピアニスト・指揮者として活動し、30歳代の前半(1856〜59年)はスウェーデンで過ごしました。この時期に交響詩を2曲(「リチャード3世」「ヴァレンシュタインの陣営」)書き上げておりますが、題材の選択にも見られますように、これらは特にチェコを意識した音楽とは申せません。スメタナが真に国民的な音楽の創造に向かうのは、スウェーデンを去ってプラハに戻ってからのことでございます。 |
帰国後、スメタナはチェコ人のための音楽を書くことに人生の目標を定め、2つの国民的オペラ「ボヘミアのブランデンブルク人」「売られた花嫁」をたて続けに作曲いたします。このうち1866年に初演された「売られた花嫁」は、チェコ国民楽派オペラの代表作として、今日に至るまで上演され続けております。 また、1866年には国民劇場の仮劇場オーケストラの指揮者に就任し、ボヘミア楽壇の中心人物となりました。ちなみに、このオーケストラにはヴィオラ奏者としてドヴォルザークが在籍しており、1874年にはスメタナの指揮でドヴォルザークの第3交響曲が初演されております。
さて、進むべき道を見出し、順風満帆の人生を歩いていたスメタナでしたが、1874年、50歳の年に、聴覚障害に襲われます。これは梅毒に起因する症状で、後にスメタナの正気と生命を奪うに至ります。 「わが祖国」と題された連作交響詩集は、以下の交響詩から構成されております。
「ヴィシェフラット(高い城)」(1874年/75年初演)
全曲が通して演奏されたのは1882年11月で、この頃スメタナは病勢が進み、言語障害や記憶喪失の症状に悩まされておりました。それを克服するために、創作の努力が続けられましたが、1884年にはついに正気を失い、5月12日にプラハの精神病院で世を去るのでございます。
「わが祖国」を構成する交響詩は、それぞれチェコの地名と由来する歴史や伝説を標題にもっております(「ボヘミアの森と草原から」は例外)。 なお、個々の曲、およびその地名については、実際にチェコを旅されて紀行文を掲載されているVindobona様のサイト、「わが祖国紀行」をぜひご参照ください。文章と写真で、「わが祖国」の世界が具体的なイメージとして浮かび上がってくるものと存じます。
さて、スメタナは「わが祖国」全曲をピアノ連弾に編曲してくれております。自身がピアニストでもあったこともあり、この編曲はたいへん音楽的効果に富んだアレンジになっております。 |
「わが祖国」・全曲連続再生 | |
ヴィシェフラット (Vyehrad) | |
ヴルタヴァ (Vltava) | |
シャールカ (árka) | |
ボヘミアの森と草原から (Z českých luhův a hájův) | |
ターボル (Tábor) | |
ブラニーク (Blaník) | |
「ターボル」「ブラニーク」・連続再生 | |
◇あそびのピアノ連弾に戻ります◇ | |
◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集様 | |
◇編 曲:B. スメタナ ◇MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma |