メアリー・スチュアート女王の詩 作品135 (Gedichte der Königin Maria Stuart, Op.135) |
シューベルトに始まりマーラーに至る19世紀ドイツ・リートの流れの中で、シューマンは疑いもなく最大の人物の一人でございます。中でも1840年、「歌曲の年」に書かれた作品には2つの「リーダークライス」や「女の愛と生涯」「詩人の恋」のような名高い歌曲集が含まれ、歌曲作家としてのシューマンの歴史的評価はほとんどこの年の作品のみで決定されていると申しても過言ではない気がいたします。 しかしながら、同じく歌曲の大家とされながら、シューベルトの作品がその創作時期に関わらず広く一般に親しまれているのに対し、シューマンの場合は「歌曲の年」以外の時期に書かれた歌曲があまり知られていないように思えます。シューマンの歌曲創作は習作期の1827年頃に始まり、晩年の1853年まで継続されておりますが、管弦楽曲や室内楽曲、大規模な声楽曲へと創作の幅を広げてからの時期の歌曲が顧みられる機会は、思いのほか少ないのではないでしょうか。
メアリー・スチュアート(1542〜1587)はスコットランドの女王でございます。
フランスに渡ったメアリーは、フランス王アンリ2世の皇太子フランソワと結婚いたします。結婚から2年も経ないうちにアンリ2世は急死し、皇太子がフランソワ2世として戴冠。メアリーは、わずか17歳でスコットランド女王兼フランス王妃となったのでございます。
スコットランドで実権を握っていたのは、メアリーの異母兄マリ伯ジェームズ・スチュアート。この兄は女王である妹の帰国を苦々しく思っておりました。1565年7月、メアリーがこれまたイングランド王位継承権を持つ従兄弟のヘンリー・ダーンリーと結婚すると、イングランドのエリザベス女王も危機感を持ち、マリ伯を支援してクーデターを起こさせます。が、このクーデターは失敗し、マリ伯はイングランドへ亡命いたしました。
ここまででも充分すぎるほど波乱に富んだ生涯でございますが、メアリーの人生は、このあとさらに二転三転いたします。 26歳の元スコットランド女王を、エリザベスはともかくも受け容れることにいたします。エリザベスが寛大だったと申すより、これは政治的判断だったのでございましょう。メアリーはエリザベスと交渉し、エリザベスの要求をすべて呑む代わりに、メアリーのスコットランド女王への復位を認めさせることに成功します。ところが、国際情勢の変化からメアリーの復位は実現せず、メアリーはエリザベスを憎悪し、エリザベス打倒の陰謀に何度も加担することになるのでございます。
決定的な事件が起きたのは1586年のこと。カトリック系の貴族アンソニー・バビントンを含む6人によるエリザベス1世暗殺計画が発覚し、その計画にメアリーが関与していたことが証拠立てられた「バビントン事件」でございます。 メアリーは若い頃から時折詩を書いていたようで、たとえばフランス王フランソワの死後、夫を偲んで「亡き夫に捧げる挽歌」という詩を残しております。若い頃フランスで暮らし、カトリック教徒でもあったメアリーは、詩を書く際にはフランス語を使用し、このシューマンの歌曲集のもととなった詩もフランス語で書かれたものだそうでございます。この5曲の詩は、内容から見ると異なった時期に書かれたもののように思えますが、詳しいことは存じません。ただ、最後の2つの詩だけは、「バビントン事件」後に幽閉された時期の作と考えたくなるような内容でございます。
シューマンは、フランス語の原詩をギースベルト・ヴィンケが独訳したものに作曲しております。1852年、シューマンの創作期の終盤に書かれたこの歌曲集は、独唱とピアノ伴奏の歌曲としてはおそらくシューマン最後の作品ではないかと思われます。 「あそびの音楽館」では、この作品をクラリネットとピアノ伴奏という形でやってみたいと思います。そのため、声楽の部分に多少のアレンジを加えておりますことを、あらかじめご了承願いますm(__)m 歌詞につきましては、藤井宏行様の御訳を使わせていただいております。どうもありがとうございますm(__)m |
◇あそびのエトセトラに戻ります◇ |
◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集様 |
◇編 曲・MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma |