サン=サーンス/交響曲 第1番 変ホ長調 作品2
(Saint-Saëns : Symphony No.1 in E flat major Op.2)

サン=サーンスはいわゆる「神童」で、2歳半でピアノを始め、10歳でリサイタルを開いて成功し、13歳でパリ音楽院に学んだそうでございます。初めて交響曲を完成したのが15歳というから驚きですが、この作品は習作で、真の交響曲第1番は18歳、1853年に完成されました。
この時代、フランスではオペラやバレエが隆盛を極めており、交響曲をはじめとする絶対音楽の分野は等閑視される傾向が強かったのですが、その中にあって交響曲、協奏曲、室内楽曲などを次々に生み出したサン=サーンスは、当時としては異色の作曲家でございました。そのためもあってか、フランス楽壇のサン=サーンスに対する風当たりは強く、大きな才能があるにもかかわらず、2度挑戦したローマ大賞も受賞できないで終わっております。
しかし、第1交響曲は好評で、ベルリオーズやグノーが絶賛し、最初の出版された作品となりました。

さて、サン=サーンスは完成された交響曲としては5曲を残しておりますが、15歳の時のイ長調と21歳の時のヘ長調(ローマ)には番号がなく、第2交響曲も23歳の時の作品ですから、後年の第3番(51歳)を除くとすべての交響曲を若い時代にかためて書いたことになります。当然ながら、これらの作品に円熟味や巨匠的なスケールの大きさは期待できませんが、1850年代という時代を考えると、この時期に集中して交響曲を書いたサン=サーンスの、多くのフランス人作曲家とは異なる音楽的志向がよく見える気がいたします。
考えてみますと、1853年というのは若きブラームスがシューマンに認められた年であり、現存する偉大な交響曲作家はシューマンただひとり、と申してよい時代でございます。本場ドイツ・オーストリアでさえ寂寥感漂う交響曲というジャンルに果敢に挑み、若年ながらオペラ全盛のフランス楽壇に一石を投じたサン=サーンスの存在は、当時としてはきわめて異色であったかと推察されます。
ちなみに1855年、サン=サーンスの第1交響曲から2年後に、17歳のビゼーが交響曲ハ長調を書き上げております。この曲はハイドンに代表される古典交響曲をお手本にしながら、ビゼーらしいメロディの魅力も盛り込まれた佳品ではございますが、ビゼーはあくまでこれを習作として作曲したのであり、発表もされておりません。すなわち、ビゼーには大形式の交響作品でフランス音楽の道を開拓しようなどという大それた野望はなく、この点はサン=サーンスとは大きな違いがあったと申してよろしいでしょう。

第1交響曲は4つの楽章から成り、構成的には伝統的な形式感をもっております。印象としてはフランスふうというよりも、明らかにシューマンやメンデルスゾーンに代表されるドイツ・ロマン派、とりわけライプツィヒ楽派の影響が濃いと申してよろしいかと存じます。
その一方で、4台のハープや2対のティンパニを使用するといった、当時としてはかなり思い切った楽器編成、さらに常識的な範疇を大きく外れた各楽章の調性配置(ト長調の第2楽章、ホ長調の第3楽章。とりわけ第3楽章は主調に対して極端な遠隔調)など、相当に大胆で意欲的な点も見られます。形式の上でも、序奏付きソナタ形式の第1楽章では展開部の初めと終わりに序奏を再現したり、終楽章に前奏曲とフーガを持ち込むなど、青年というよりはまだ少年に近いサン=サーンスの、若々しい野心が透けて見えるようでございます。

ここで取り上げました連弾用の編曲は、作曲家自身の手に成るものでございます。お楽しみいただければ幸甚です。


交響曲第1番変ホ長調 作品2・全曲連続再生 

第1楽章/アダージョ ― アレグロ(I. Adagio - Allegro) 
第2楽章/行進曲的スケルツォ:アレグレット・スケルツァンド
   (II. Marche scherzo : Allegretto scherzando)
第3楽章/アダージョ ― 第4楽章/フィナーレ:アレグロ・マエストーソ
   (III. Adagio - IV. Finale : Allegro maestoso - Piu allegro)

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◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集
◇編 曲:C. サン=サーンス ◇MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma