成田 為三/「君が代」による変奏曲
(Tamezo Narita : Variationen über das Thema "Kimigayo")

「浜辺の歌」で知られる成田為三は、今日では少数の童謡や歌曲のみで名を残しておりますが、1922年から1926年までベルリンで作曲・ピアノ演奏・指揮を学び、帰国後には音楽理論書を著し、オーケストラ曲や室内楽曲を作曲するなど、本格的な作曲家でございました。
太平洋戦争中に米軍の爆撃により多くの作品が焼失したため、その業績の大部分が残されていないのは惜しいことでございます。

『「君が代」による変奏曲』は1940年に作曲されたピアノ作品ですが、これがどのような経緯で書かれたのは寡聞にして存じません。
ただ、1940年は皇紀2600年(神武天皇即位から2600年)が盛大に祝われた年であったことは参考になるかもしれません。
日本政府はこの式典のために、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ハンガリーに祝祭曲を委嘱し、それに応えてブリトゥンの「鎮魂交響曲」、イベールの「祝典序曲」、リヒャルト・シュトラウスの「祝典曲」、ピツェッティの「交響曲イ調」、ヴェレシュの「交響曲第1番」が寄せられ、式典に相応しくないとされたブリトゥンのものを除く全曲が東京・大阪で初演されるという、実に派手なイヴェントが開催されました。当然ながら、日本人の作曲家も祝典のための曲を数多く作曲したことは想像に難くありません。
代表的な邦人作品としては、信時潔の「海道東征」、橋本國彦の「交響曲第1番」、山田耕筰のオペラ「夜明け」などがございます。日本国歌である「君が代」を使用していることから、成田為三の変奏曲も皇紀2600年の祝典を意識しているのではないかと推察されます。

この曲は「君が代」を主題とする12の変奏曲とコーダで構成されております。
主題は成田為三によって独自に和声付けされており、普段演奏されて耳に馴染んだ「君が代」とは微妙に異なる印象を与えます。
各変奏は切れ目なく次の変奏につながる形で書かれており、変化に富んだ本格的なものでございます。
コーダは大規模なもので、「君が代」の原曲を途切れ途切れに挟みながら、全曲を壮大に結んでおります。

さて、「君が代」について少々。
1869年、ヴィクトリア女王の次男エディンバラ公が来日するにあたり、在日英公使館護衛歩兵隊軍楽隊長フェントン(John William Fenton;1831〜1890)の提案により、式典曲としての日本国歌を制定することになりました。歌詞は「古今和歌集」から選ばれ、フェントンが作曲しました。曲はエディンバラ公来日の際、英国軍楽隊によって演奏され、その後は1876年まで、式典の折には国歌として演奏されました。
実のところ、フェントンの曲は初演当時から日本人には違和感をもって受け止められておりましたが、1876年に至り「君が代」を国歌にふさわしいものに改訂すべきという上申書が海軍から提出され、太政官(当時の政府)も同意。1880年に宮内省伶人長(音楽責任者)の林廣守(1831〜1896)が旋律を作曲、軍楽教師エッケルト(Franz Eckert;1852〜1916)が吹奏楽用に編曲しました。
今日、一般に知られ、日本人の耳に馴染んでいるのは、この林廣守とエッケルトによるものでございます。
ここでは、ご参考までにフェントンの曲と現行の曲をピアノ独奏で掲載しておきます。


成田 為三/「君が代」による変奏曲(Variationen über das Thema "Kimigayo") 
フェントン/「君が代」(J. W. Fenton : Kimigayo) 
林 廣守/「君が代」(H. Hayashi : Kimigayo) 

◇あそびのエトセトラに戻ります◇
◇MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma