マーラー/交響曲第2番 ハ短調 (Gustav Mahler : Symphony No.2 in C minor) |
1888年の3月に第1交響曲の原型となるニ長調の作品を書き上げたマーラーは、6月にはハ短調の交響的作品に着手します。これが第2交響曲の第1楽章に該当する作品で、作曲者自身の手で「葬礼」と命名されました。9月に「葬礼」を完成させたマーラーは、11月にニ長調の作品を「交響詩」として自身の指揮で初演。ところが、これは失敗し、マーラーは「葬礼」の発表を控え、「交響詩」の改訂に力を注ぐことになります。 1888年から1891年にかけて、ブダペスト王立歌劇場の音楽監督を務めたマーラーは、人間関係上のトラブルで王立歌劇場を辞任し、ハンブルク市立歌劇場の指揮者に就任。退職してもすぐに次の就職先が見つかるのは羨ましい限りですが、実際マーラーは30歳を過ぎたばかりの若年ながら、指揮者としての実績と評価は確固たるもので、当時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローもマーラーを高く評価しておりました。 1891年の10月、マーラーは「葬礼」のスコアを出版社に送り、11月にはビューローにピアノで「葬礼」を弾いて聴かせております。指揮者としてのマーラーを絶賛したビューローですが、「葬礼」には拒絶反応を示し、「これが音楽なら、私には音楽はわからない」と述べたそうでございます。スコアは出版社からも拒絶され、この時点では「葬礼」が日の目を見ることはなくなりました。
1893年の夏までに、マーラーは「葬礼」に続く3つの楽章を書き上げました。1888年以来、マーラーは「子供の不思議な角笛」の作曲を続けており、「葬礼」を第1楽章とするハ短調の交響曲では第3楽章や第4楽章にこの歌曲集との強い関連が見いだせます。
初演は1895年3月、マーラー自身の指揮によってベルリン・フィルのコンサートで行われましたが、この時は最初の3楽章のみの演奏でした。 第2交響曲は今日「復活」の名で知られておりますが、これは申すまでもなく終楽章の詩に基づくもので、曲名としてもふさわしいものと思われますが、マーラー自身はこの曲に「復活」という題名を与えてはおりません。ただし、各楽章の意図するところはかなり詳細な説明を自身で書き残しており、この交響曲がある人物の死、その生涯の回想、最後の審判と魂の復活、という標題的な内容をもつことは明らかと思われます。ちなみに、「ある人物」について、マーラーは「私の第1交響曲での英雄」と表現しており、それはおそらくマーラー自身を指すものと考えてもよろしいかと存じます。 第2交響曲は5つの楽章から成りますが、第3楽章から第5楽章までは休みなく演奏せよとの指定がありますので、全体は第2楽章を中央に配置した3部構成と見ることもできましょう。第3楽章のスケルツォは「子供の不意義な角笛」から「魚に説教する聖アントニウス」、第4楽章は同じく「原光」に由来するもので、第4楽章と第5楽章には声楽が加わります。第4楽章は歌曲の形をとり、声楽中心の楽章となっておりますが、巨大な終楽章は実のところ大半がオーケストラのための音楽で、独唱と合唱が参加するのは楽章後半、演奏時間にしてせいぜい三分の一といったところでしょうか。しかしながら、復活を歌い上げる声楽の効果は抜群で、味わいは異なりますが、ベートーヴェンの第九に匹敵するほどの感慨を聴く者に与えると申してよろしいでしょう。
マーラー自身はこの交響曲をピアノのために編曲しておりませんが、ここでは指揮者として高名だったワルター(Bruno Walter:1876〜1962)の手に成るピアノ連弾用のスコアを用いました。ワルターが基にしたスコアがどの時点のものか確かなことは存じませんが、現行のフルスコアとは異なる点が何箇所も散見されます。また、第3楽章から終楽章まで休みなしの指示が、ワルターのものにはございません。それを尊重するという意味ではなく、単に録音の便宜上からではございますが、弊サイトでは第3楽章以降を単独でアップいたします。これらの点、何卒ご了承願います。 |
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◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集様 | |
◇編 曲:B. ワルター ◇MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma |