カリンニコフ/交響曲第1番 ト短調 (Vasily Kalinnikov : Symphony No.1 in G minor) |
1901年の1月11日、35歳の誕生日を目前にしてカリンニコフがひっそりとこの世を去ったとき、楽壇はロシア音楽から大きな才能のひとつが失われたことに気づきませんでした。この作曲家の残した交響曲第1番だけが一部の人々に愛好され、20世紀の最初の頃には比較的演奏機会にも恵まれてはおりましたが、依然として作曲者の知名度は低く、世紀の半ばを過ぎたあたりでは演奏されることもめったになくなり、忘れられた作曲家のリストに名を連ねることになったのでございます。 |
カリンニコフの名が一般に知られるようになったのは、おそらく1990年代にCDでその2つの交響曲が取り上げられてからでしょう。とりわけ第1交響曲の与えたインパクトは大きく、現代ではカリンニコフの音楽を愛好する人々の数は昔日の比ではございません。
カリンニコフは、やや誇張して申すなら、生涯日陰の道を歩み続けた人でございました。 |
この貧窮時代の苦労がカリンニコフの健康を蝕んだのでございましょう。1890年頃から体調の不良を訴えるようになりました。おそらく、すでに結核に冒され始めていたのでしょう。 1892年、カリンニコフにチャンスが訪れます。当時ロシア最大の作曲家であったチャイコフスキーがカリンニコフの才能を認め、その推薦でマールイ歌劇場の指揮者の地位を得たのでございます。 苦労の甲斐あって、やっと風向きがよくなってきたと思えたのも束の間、翌年には推薦者のチャイコフスキーが急死。カリンニコフ自身も、結核が進行して指揮活動ができなくなり、歌劇場を辞めて妻とともにクリミア半島のヤルタに転居し、その地で療養生活を送ることになります。 定まった収入はなく、友人のシモン・クルグリコフやセルゲイ・ラフマニノフの金銭的援助に頼ってどうにか食べていけるような生活。しかも、当時死に至る病とされていた結核を抱えての闘病の日々。 そうした絶望的な状態の中で、交響曲第1番は生まれたのでございます。
第1交響曲は1894年から翌年にかけて作曲されました。作曲者29歳のときの作品でございます。曲は親友のクルグリコフに献呈されております。
交響曲を書き上げると、カリンニコフはリムスキー=コルサコフに写譜したスコアを送りました。ロシア楽壇の大御所であったリムスキー=コルサコフに推薦をもらえば、初演されるのも夢ではないと考えたのでございます。
ここで取り上げております第1交響曲のピアノ連弾版は、カリンニコフ自身の手に成るものでございます。 |
◇あそびのピアノ連弾に戻ります◇ | |
◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集様 | |
◇編 曲:V.S.カリンニコフ ◇MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma |