エルガーといえば「威風堂々第1番」と「愛の挨拶」の作曲者として知られておりますが、これらがあまりに有名なためか、特にわが国ではそれ以外の傑作が等閑視されている気がしてなりません。
エルガーは未完成の第3番を含む3つの交響曲、2つの協奏曲、多くの管弦楽曲、「ゲロンティアスの夢」をはじめとする合唱曲など、聴くに値する作品を数多く残しております。ドイツ・ロマン派の手法を骨子としながらも、「英国ふう」としかいいようのない独特の詩情に満ちた作品群には、他では得られない魅力がございます。
エドワード・エルガーは1857年、「ウスターソース」で有名なウースター郊外で楽器商の家に生まれました。
幼い頃から店の楽器や楽譜に親しみ、少年時代から作曲家になる夢を抱いていたそうでございます。けれども経済的な事情で音楽学校に進むことができず、ピアノやヴァイオリンを教える音楽教室で生計を立てながら、独学で作曲にいそしんでおりました。
1886年、エルガー29歳のとき、音楽教室にひとりの女性が入門してまいります。キャロライン・アリス・ロバーツ、地元の名士ロバーツ将軍の一人娘で、このとき37歳。赤い糸で結ばれていたと申し上げるべきか、エルガーは8歳年上のアリスと恋に落ちます。
身分の違いによる周囲の反対を押し切った二人は、2年後に婚約。このときの記念として作られたのが「愛の挨拶」でございます。
翌1889年、アリスと結婚したエルガーは、いよいよ作曲家になる夢を実現すべく、ロンドンに転居いたします。それまで10年以上も鳴かず飛ばずの田舎暮らしだったエルガーが自分を売り出すのに積極的になった背景には、夫の楽才を心から崇敬するアリスの励ましがあったことは想像に難くありません。
ロンドンでは、エルガーは作曲に専心し、生活はアリスが母の遺産で支えておりましたが、やがてその遺産も底を尽き、生活は苦しさを増す一方だったようでございます。出版社に送った作品はどれもこれもボツにされ、唯一「愛の挨拶」だけが売れましたが、「著作権込みで買い取り」という条件のため、楽譜が売れても生活の苦しさは相変わらずでございました。
1891年、2年間のロンドン暮らしに見切りをつけたエルガーは、家族とともに故郷に戻ってまいります。
表面的に見れば、都会での夢に破れて失意の帰郷、ということになりそうですが、ロンドンの喧騒から解放されたエルガーの脳裏には新鮮な楽想が湧き上がり、これまで以上に意欲的に作曲に取り組むことになるのでございます。
再び音楽教室で教えながら黙々と作曲を続けること約6年、1897年のヴィクトリア女王即位60周年を記念して作曲した「英国行進曲」でエルガーの名は多少知られるようになります。そしてその2年後、管弦楽のための「エニグマ変奏曲」を作曲。これが著名な指揮者ハンス・リヒターの目にとまり、ロンドンで初演されたことで、エルガーはようやく作曲家としての成功を掴みます。
1899年、42歳のときでございました。職業作曲家のスタートとしては、相当に遅い方と申すべきでございましょう。
しかしながら、このときからおよそ10年にわたり、エルガーの創作活動は破竹の進撃と申してよい様相を呈します。
1900年作の「ゲロンティアスの夢」は不測のトラブルのため初演は失敗したものの、ドイツでリヒャルト・シュトラウスに認められ、国外での名声が高まります。
1901年作の「威風堂々第1番」が国王に即位したばかりのエドワード7世のお気に召したため、エルガーは英国王室お墨付きの作曲家としてさらにその名を高めます。
1903年〜1906年には、弦楽四重奏と弦楽合奏のための「序奏とアレグロ」や聖書によるオラトリオ三部作として計画されたうちの「使徒たち」「神の国」を作曲。
1904年には王室からナイトの称号を与えられます。
そして1908年、前年から取りかかっておりました「交響曲第1番」が完成いたします。
このときエルガーは51歳、最初の交響曲を発表する年齢としては、遅いといわれるブルックナーやブラームスよりもさらに遅れておりますが、その反響はすばらしいものでした。なにしろこれほどの大作が、発表後の1年間で、驚くなかれ100回以上も演奏されたのでございます。平均しますと、およそ3日に1回は、世界のどこかでこの交響曲が演奏されていた計算になります。
このときから1910年の「ヴァイオリン協奏曲」発表までの約2年間が、エルガーの世間的成功の絶頂期だったと申せましょう。1911年の「交響曲第2番」の失敗以降、エルガーの人気は急速に凋落していくのでございます(>_<)
エルガーの交響曲第1番は、近代イギリス最初の交響曲でございます。
正確に申しますならば、世界的水準で見て傑作の域に達したイギリス最初の交響曲ということになりましょう。
ヘンリー・パーセルの没後、イギリスは音楽の産出国としては他国の後塵を拝してまいりました。産業革命以降の国家的大発展とは反比例するように、音楽的には凋落の一途を辿ったのでございます。文学や美術にはそのような傾向が見られないことから、イギリスは音楽的創造力に乏しい国、というイメージが久しく定着いたしました。
夏目漱石に「文学評論」と題する17〜18世紀英文学を論じた著書がございますが、その中に英国を代表する音楽家として「ハンデル」の名が出てまいります。いうまでもなくヘンデルのことで、国内に定住したとはいえ他国人を自国の代表的作曲家にするしかないのが当時のイギリスだったと申せましょう。
ヘンデル以降でも、イギリスが誇りとする作曲家はヨハン・クリスティアン・バッハであり、ハイドンであり、メンデルスゾーンでございました。
ショパンに影響を与えたジョン・フィールドや、オペレッタで人気を集めたサリヴァン、交響曲などシリアスな方面で活動したベネット、パリー、スタンフォードなど、けっして人がいなかったわけではございませんが、やはり19世紀末までのイギリスは、こと音楽に関する限り輸入超過国だったと申し上げねばなりません。
このようなときに現れたエルガーの第1交響曲は、大陸の音楽の借り物でない独自性、近代オーケストラの粋を尽くしたような豊麗な管弦楽法、緻密な構成と雄大な規模などによって、初演時から聴衆の絶大な支持を得ました。イギリス人が胸を張って「これこそわが国の交響曲である」といえる作品の誕生でございます。
初演の年にこの曲を聴いた音楽批評家のネヴィル・カーダスは、「学生だったわれわれは、ついに英国の作曲家が、洋々とした、ヨーロッパ的であって地方的でない言葉でわれわれに語りかけているのを聞いて興奮したものである」「これこそは、英国人が神をたたえ、祖国をたたえる交響曲であった」(以上、篠田一士訳)と書いておりますが、たしかにイギリス人にとって、未来への夢と希望をかき立てる交響曲だったのでございましょう。
初演のタクトを振ったハンス・リヒターは、この曲の第3楽章について「ベートーヴェンのアダージョ」といい、指揮者のアルトゥール・ニキシュは全曲を「ブラームスの第五」と評しております。比喩が的を射ているかどうかはともかく、これらがドイツの音楽家による最大の賛辞であることはいうまでもございません。
この交響曲は大作でございまして、演奏に50分以上を要します。
伝統的な4楽章構成ではございますが、第2・第3楽章は、ちょうどシューマンの第1交響曲「春」のようにスケルツォと緩徐楽章がアタッカでつながっております(順番はシューマンとは逆ですが)。
第1楽章の冒頭に緩やかな歩みの印象的な旋律が出てまいりますが、これは全曲を統一する「モットー」ともいうべき主題でございまして、この主題が第4楽章の終わりに壮大に復帰する際の高揚感は、ちょっと他では見られないほどの効果をもっております。
また、この曲は「変イ長調」ということになっておりますが、興味深いことに、第1楽章の主要部分はニ短調、第2楽章は嬰へ短調、第3楽章はニ長調、第4楽章の主要部分はニ短調でございます。つまり、全曲は明らかにニ短調の交響曲というべき調性で設計されているにもかかわらず、第1楽章の序奏とコーダ、第4楽章のコーダは変イ長調で書かれており、変イ長調の壮麗な枠組みの中でニ短調の音楽が展開するという、調性的な二重構造が大きな特徴となっております。
この大作を連弾化するにあたり、ピアノ1台の連弾では制約が大きすぎて私の手に余りますので、2台ピアノのために編曲することにいたしました。原曲が充実した管弦楽の響きに満ちておりますため、私の編曲は非常に貧しい響きと感じられることと存じますが、その点は何卒ご容赦願いますm(__)m