ショーソン/交響曲 変ロ長調 作品20 (Ernest Chausson : Symphony in B flat major, Op.20) |
ショーソンはフランク(César Franck:1822〜1890)を中心とするフランス人作曲家の一団、いわゆる「フランキスト」のひとりで、地味ながら優れた作品を残した人でございます。 経済的に恵まれ、職業的に曲を作る必要のなかった彼は、自己の美学に忠実に書きたい作品だけを書き、納得のゆくまで曲を磨き上げることができました。惜しいことに、44歳という若さで自転車事故で死亡したこともあって、残された作品はけっして多くありません。 |
子供の頃から楽才と画才を示し、芸術家になることを望んでいたショーソンでしたが、父親の意向で法学を学び、22歳で弁護士の資格を取得します。これに満足した父親は息子が音楽を学ぶのを許し、ショーソンはようやく本格的に音楽の道に入ることになります。 はじめマスネ(Jules Massenet:1842〜1912)に個人指導を受け、翌年にはパリ音楽院の聴講生となり、マスネとフランクに学びます。25歳の年には正式にパリ音楽院に入学しますが、音楽の専門家としてはかなり遅い学習のスタートと申せましょう。 フランクに接し、デュパルク(Henri Duparc:1848〜1933)やダンディ(Vincent d'Indy:1851-1931)と親交を結ぶ中で、ショーソンはフランキストとしての道を歩み始めます。
音楽院卒業後のショーソンは、歌曲を主要な創作分野とする目立たない作曲家でしたが、1882年には交響詩「ヴィヴィアーヌ」を作曲、1886年にはアーサー王伝説に基づくオペラ「アルトゥス王」に着手するなど、より大規模な作品への野心も見せております。
1886年はフランスの交響楽界にとって重要な年で、サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns:1835-1921)の第3交響曲、ダンディの「フランス山人の歌による交響曲」、ラロ(Édouard Lalo:1823〜1892)の交響曲ト短調が書かれ、フランスにおけるこのジャンルの隆盛のきっかけとなりました。
曲はフランクの作品に倣い、3つの楽章から構成されております。ただし、第2楽章は純粋に緩徐楽章で、フランクのもののようにスケルツォの融合したものではありません。ショーソンははじめ、第2楽章にスケルツォを組み込もうとしましたが、うまくいかず、そのアイディアは断念したそうでございます。
ここで使用しておりますスコアは、ショーソン自身の手に成るピアノ連弾用の編曲でございます。 |
交響曲変ロ長調 作品20・全曲連続再生 | ||
第1楽章:遅く ― アレグロ・ヴィーヴォ(I. Lent - Allegro vivo) | ||
第2楽章:きわめて遅く(II. Très lent) | ||
第3楽章:生き生きと ― きわめて生き生きと(III. Animé - Très Animé) | ||
◇あそびのピアノ連弾に戻ります◇ | ||
◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集様 | ||
◇編 曲:E. ショーソン ◇MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma |