「ドイツ・レクィエム」は、それまで一般には主として室内楽と歌曲の作曲家として知られていたブラームスが、時代を代表する大家の一人として認知されるきっかけとなった作品でございます。
「ドイツ語でレクィエムを書く」というアイディアはシューマンが抱いていたということですが、ブラームスがそれをどの程度知っていたのかは存じません。ただ、今日「ドイツ・レクィエム」の第2楽章に相当する音楽が起稿されたのは、シューマンの没後間もない1857年頃のことのようでございます。その意味では、「ドイツ・レクィエム」作曲のきっかけは恩人シューマンの死と申してよろしいかもしれません。
とはいえ、このとき書き始められた音楽は1854年頃から構想を進めていた2台のピアノのためのソナタ(あるいは交響曲を想定したものか?)のスケルツォ楽章(「死者のスケルツォ」)を転用したものであり、「葬送のためのカンタータ」のひとつの楽章にするつもりだったようです。この楽章が紆余曲折を経て現在の形に落ち着いたのは早くとも1859年頃のことでした。この時期に、現在の第1楽章に相当する音楽も手がけられたと思われます。
その後、作曲はしばらく中断しますが、1865年の母親の死をきっかけとして、ブラームスは「葬送のためのカンタータ」に精力的に取り組みます。同時に、このカンタータを拡大して、より大規模な「レクィエム」に発展させる構想も固まります。この年のうちに現在の第4楽章が書き上げられ、クララ・シューマンに送られております。
1866年には第3・第6・第7楽章が作曲され、第1楽章も含めて、第5楽章を除き、ほぼ現在の形態が確立されました。
1867年には第1楽章から第4楽章までを補筆完成し、年末には最初の3つの楽章がヨハン・ヘルベックの指揮で部分的に初演されました。この演奏会では第1・第2楽章に関しては概ね好評でしたが、第3楽章の後半のフーガを演奏する際、ティンパニが長大な持続音をあまりの大音量で叩き続けたため、聴衆にはフーガそのものが聴きとれず、作品そのものが激しいブーイングを浴びるという結果になってしまいました。
初演は失敗に終わりましたが、この作品に対するブラームスの自信は揺るがず、翌1868年4月には完成していた6楽章構成(現在の第5楽章はまだ作曲されておりません)により、今回はブラームス自身の指揮でブレーメンで初演、大成功を収めます。
このとき、友人のヨアヒム夫人の独唱で、現在の第3楽章と第4楽章の間にヘンデルの「メサイア」からのアリアが挿入され、これも好評でした。その2週間後の再演では、ヘンデルの代わりにウェーバーの「魔弾の射手」からのアリアが歌われ、またもや大好評。こうした経緯を経て、ブラームスもこの曲にソプラノ独唱の楽章を付け加えることを考えるようになり、ブレーメン初演の1ヶ月後には独唱のための曲を第5楽章として完成、ここに「ドイツ・レクィエム」全7楽章が完結したのでございます。
全曲の初演は1869年2月、カール・ライネッケの指揮によってライプツィヒで行われ、決定的な成功を収めました。
こうして、ブラームスは30代半ばにして、ドイツ屈指の作曲家としての楽壇的地位を手に入れrたのでございます。
通常のレクィエムはカトリックの葬送音楽であり、ラテン語の典礼文に従って作曲されるものですが、ブラームスはプロテスタントの作曲家として、また、作品そのものも純粋に演奏会用の作品として構想しております。歌詞はドイツ語の旧約・新約両聖書から任意に選択されており、「ドイツ・レクィエム」という曲名も、その事実に由来しております。
7つの楽章はいかにもブラームスらしく作品全体に確固とした統一感をもたらすように設計されております。第1楽章と第7楽章、第3楽章と第6楽章はそれぞれ相呼応してシンメトリックな構造をもち、温和な第4・第5楽章を中心としたアーチ型を成しております。また、第1楽章に現れる「Selig sind」の上昇音型が基本動機として全曲の統一に寄与しておりますことも見逃せません。
全曲の音響的頂点は第6楽章の後半に置かれ、ここで展開されるフーガはヘンデルを思わせる壮麗さに満ちております。そして、全曲を締めくくる第7楽章が第1楽章の発展的変奏として曲全体の円環を閉じておりますのも、ブラームスらしい首尾一貫した構成と申せましょう。
ブラームスは自身の手でこの作品をピアノ四手連弾用に編曲しておりますが、ここではアウグスト・グリュタース(August Grüters : 1841〜1911)という人が2台ピアノ用に編曲したものを使用いたしました。
ピアノで演奏された「ドイツ・レクィエム」、お楽しみいただければ幸甚でございます。