ブラームス/ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15
(Johannes Brahms : Piano Concerto No.1 in D minor, Op.15)

ブラームスは生涯に4つの協奏曲を残しております。最後の二重協奏曲のみはやや小ぶりですが、それ以外の3曲はいずれも協奏曲としては大作で、演奏時間はほとんど50分に達し、内容もシンフォニックなものでございます。ブラームスの伝記作者ガイリンガーは4つの交響曲に加えてこれらの協奏曲も含め、「ブラームスは生涯に8つの交響曲を残した」と書いておりますが、そうした表現に違和感がないほど、ブラームスの協奏曲は充実した内容をもっております。

そうしたブラームスの協奏曲の最初の作品が、ピアノ協奏曲第1番でございます。
ブラームスは1853年、20歳の年にシューマンに激賞され、シューマンの発表した「新しき道」の一文によって一躍有名になりましたが、その翌年、恩人シューマンはライン河に投身自殺を図り、精神病院に入院してしまいます。第1ピアノ協奏曲の原型となった3楽章構成の「2台のピアノのためのソナタ」は、この衝撃的な事件からほどなく作曲されたもので、第1楽章の悲劇的な曲想にはその反映があるともいわれております。
ソナタの完成は3月ですが、試演の結果、ブラームスはこの編成を考え直し、7月には交響曲への改作に取りかかります。この仕事が順調に進めば、私たちにはブラームスの第1交響曲ニ短調という作品が残されたかもしれません。
しかしながら交響曲の作曲は行き詰まり、翌1855年になってピアノ協奏曲への改作を思い立ち、ようやく現在の姿に近づくことになります。
これと似たようなことで、1862年に作曲された弦楽五重奏曲ヘ短調が「2台のピアノのためのソナタ」に改作され、さらにピアノ五重奏曲として完成されたケースが思い浮かびます。この場合、ブラームスは「2台のピアノのためのソナタ」も出版しておりますが、第1ピアノ協奏曲の原曲であるソナタは破棄されてしまい、現在目にすることができないのは少し残念でございます。


ピアノ協奏曲の第1楽章は1856年の10月に完成。改作を始めてからおよそ1年が経過しております。続いて第3楽章に取りかかり、これは12月に完成しました。
第2楽章は、元はスケルツォだったものを破棄し、緩徐楽章として新たに書き起しました。ブラームスによれば、これはクララ・シューマンをイメージしたベネディクトゥス楽章ということでございます。第2楽章の完成は翌年の1月で、ここに最初の着想からほぼ3年の歳月をかけて、記念すべきブラームス最初の大作、第1ピアノ協奏曲が出来上がったわけでございます。
ちなみに、作品番号の上ではセレナーデ第1番が作品11で、本格的なオーケストラを用いた作品としてはこちらの方が先のように見えますが、セレナーデが完成したのは1858年。すなわち、第1ピアノ協奏曲はオーケストラ作品として正真正銘ブラームスの処女作なのでございます。

初演は1859年の1月22日、ハノーファーでブラームス自身の独奏、ヨーゼフ・ヨアヒムの指揮で行われ、ある程度の好評は得たようでございます。
しかし、その5日後に同じくブラームスが独奏を担当したライプツィヒ初演は、惨憺たる結果に終わりました。ライプツィヒはかつてメンデルスゾーン、シューマンのお膝元で、シューマンに見出されたブラームスとしては是非ともこの地で成功を収めたいところでしたが、聴衆は重厚長大な協奏曲に非難のブーイングを投げまくり、ブラームスにとってはトラウマになりそうな体験だっということでございます。実際、20年以上も後のことですが、第2ピアノ協奏曲をライプツィヒで演奏するにあたり、すでに大家としての地位を確立していたにもかかわらず、ブラームスは非常に心配していたということです。
ライプツィヒでの失敗で、この曲は長く冷遇されることになりました。再評価され、優れた作品として認められるのは約15年も後のことでございます。

ブラームスの4つの協奏曲のうち、第1ピアノ協奏曲以外の3曲は、1878年からおよそ10年間にかためて書かれております。これら3曲は円熟期の作品で、とりわけ第2ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲は、脂ののった豊満な音響に満ちておりますが、青年期の第1ピアノ協奏曲はそれらとは異なり、猛々しい表情をもった、北方的で荒涼とした音楽でございます。こうした特質は、初期の一連のピアノ・ソナタなどと共通した点のように思われます。
とはいえ、交響曲を思わせるがっしりした構成感、長大な音楽を破綻なくまとめ上げる手際は、とうてい23歳の青年の若書きとは思えません。第2ピアノ協奏曲に比較すると人気の点では若干ひけをとるかもしれませんが、このジャンルでは音楽史上の傑作の一つであることは間違いないと思われます。

全曲は通常の協奏曲の3楽章構成で書かれておりますが、協奏曲らしい筆致で書かれているのはせいぜい第3楽章だけで、初めの2つの楽章では、ピアノはオーケストラの目立つパートのような扱いを受けております。とりわけ第1楽章には、協奏曲の聴きどころのひとつというべきカデンツァもありません。このあたりが当初「ピアノの助奏付き交響曲」などと揶揄された理由かと思われます。
しかし、これはこの曲の弱点などではなく、むしろ一般的な協奏曲には見られない際立った個性と申すべきでしょう。

さて、ここで取り上げました2台ピアノ版は、キルヒナー(Fürchtegott Theodor Kirchner, 1823〜1903)の手に成るものでございます。
キルヒナーはブラームスの年長の友人で、優れた才能をもった音楽家ですが、ギャンブルに耽るなど自堕落な性格が災いして、大成することは出来なかった人のようでございます。1884年には、賭博で借金漬けになったキルヒナーを救済するため、ブラームスをはじめ数人の音楽家が大金を出し合って負債を清算しております。友人たちが援助するところを見ると、キルヒナーは問題児ではあっても、他人に好かれる人物だったのかもしれません。
キルヒナーの編曲では、通常の練習用スコアとは異なり、第1ピアノが独奏ピアノに徹するのでなく、オーケストラパートにも参加しております。協奏曲らしさは弱くなる代わり、ピアノニ重奏曲としての効果は高まりますので、この曲のようなシンフォニックな作品にはむしろ適した編曲といえるのではないでしょうか。


ピアノ協奏曲第1番ニ短調 作品15・全曲連続再生 

第1楽章/マエストーソ(I. Maestoso) 
第2楽章/アダージョ(II. Adagio) 
第3楽章/ロンド:アレグロ・ノン・トロッポ(III. Rondo : Allegro non troppo) 

◇「あそびのピアノ連弾」に戻ります◇
◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集
◇編曲:T. キルヒナー ◇MIDIデータ作成:Jun-T ◇録音:jimma