ベートーヴェン/交響曲第9番 ニ短調 作品125
(Beethoven : Symphony No.9 in D minor, Op.125)

ベートーヴェン最後の交響曲である第9は、単にベートーヴェンの交響曲の総決算というだけにとどまらず、ある意味交響曲の歴史の幕引きとなった問題作でございます。実際、この作品の登場によって、真剣に交響曲を書こうとする作曲家は多かれ少なかれ第9を意識せざるを得ず、ワーグナーなどは「交響曲はベートーヴェンの第9で終わった」とさえ宣言しております。
現実に交響曲の歴史がここで終わったわけではございませんが、この曲がそれ以前とそれ以後とを大別する分水嶺になったことは事実でございましょう。
Beethoven シラーの頌歌「歓喜に寄す」に作曲する計画は、青年時代からベートーヴェンの中にあったようでございます。これは実現されないまま時間が過ぎていきましたが、1817年、47歳の年にロンドン・フィルハーモニック協会から交響曲の委嘱を受けて、ロンドンに渡って初演するために、ベートーヴェンは2つの交響曲の作曲に取り組みました。ひとつはその2年ほど前から少しずつ書き進めていた純器楽のニ短調の作品、もうひとつは声楽を伴ったもので、「ドイツ交響曲」といわれる作品でございます。
しかし、体調不良のためロンドン行きは取りやめとなり、交響曲も2つのアイディアをひとつの作品に統合する方針に変更されました。

この時期、ベートーヴェンは耳疾の悪化に加えて消化器系の不良、後見人として愛情を注いでいた甥カールの自殺未遂、自作に対する世間の評価への不満など、心身ともに衰弱した状態でしたが、そうした中で第9交響曲は書き進められました。一連のピアノ・ソナタや大作「ミサ・ソレムニス」などと並行しながらの作曲ですから、その創作力には驚嘆を禁じえません。

交響曲の創作は1823年から翌年にかけて本格的に進み、完成した第9交響曲は1824年5月7日にウィーンで初演され、大成功を収めました。この時、熱狂的な拍手喝采に気づかず指揮台に立ちつくしているベートーヴェンをアルトのカロリーネ・ウンガーが振り向かせた、というエピソードは有名な話でございます。
しかしながら、その後の数度に及ぶ再演では、第9交響曲は失敗を重ね、この曲の真価が一般にまで知れ渡るのは作曲者の没後、とりわけベルリオーズとワーグナーの尽力によるものでございました。
第9交響曲が永続的な成功を保証されるきっかけとなった再演は、ワーグナーが1846年にドレスデンで指揮した演奏会だったということでございます。すでに、ベートーヴェンの死去から20年近くが経過しておりました。

第9交響曲はベートーヴェンの最高傑作のひとつでございます。声楽を含むという演奏形態がすでにに画期的でございますが、器楽のみで演奏される最初の3つの楽章もそれぞれベートーヴェン交響曲の頂点を極めております。
ワーグナー、ブルックナー、マーラーなどに与えた影響も深甚で、その存在価値は21世紀の今日においても極めて大きなものがございます。

「あそびの音楽館」では、この曲を2台ピアノ用にリストが編曲したものを公開することにいたしました。
リストはベートーヴェンの全交響曲を独奏ピアノのために編曲しておりますが、第9交響曲には2台ピアノのためのアレンジも行なっております。巨匠リストの手に成る2台ピアノのための第9交響曲、お楽しみいただければ幸甚でございます。

※一部分、Jun-Tが恣意でアレンジに手を加えている箇所がございます。ご了承願います。

(2015.12.18〜2016.1.8)

交響曲第9番ニ短調 作品125・全曲連続再生 

第1楽章/アレグロ・マ・ノン・トロッポ・ウン・ポーコ・マエストーソ 
      (I. Allegro ma non troppo un poco maestoso) 
第2楽章/モルト・ヴィヴァーチェ(II. Molto vivace) 
第3楽章/アダージョ・モルト・エ・カンタービレ(III. Adagio molto e cantabile) 
第4楽章/プレスト(IV. Presto) 

◇「ベートーヴェン/交響曲全集」に戻ります◇
◇編 曲:F.リスト ◇MIDIデータ作成:Jun-T ◇録 音:jimma